前進しない教育論

学校の現象学のために

学校の現象学のために

 本書は1985年に出版されています。私が11歳。小学校5年生ですか。校内暴力・いじめ・教師の体罰などがマスコミなどに大きく取り上げられ、社会問題となっていたようですが、記憶をたどれば、中学校の時は今や絶滅しているであろう「不良」「ツッパリ」が確かにいた(リーゼントでソリコミ、長ランの裏に龍や虎の刺繍入りである)し、授業中にバイクが廊下を走っていたのを目撃したこともあります。他校の生徒がうちの学校の「番長」を授業中に呼び出しに来たのも覚えているし、そういう「荒れ」のあった時代なのかなとも思います。しかしそれも私がたぶん最後の世代で、後はそんなことも聞かなかったようです。
 本書は大きく二部構成になっています。第一部は「教育論批判」。斉藤次郎・林竹二、灰谷健次郎、石井和彦、山本哲士などの学者・作家などの教師論・教育論がいかに定型にはまった教師像・生徒像・学校像に縛られた幻想に基づいて語られているかを批判します。特殊事例を取り上げて一般化したり、子どもを無闇に神格化して現状(それも定型にはまった教師像に基づいて)を無視した発言をひとつひとつ取り上げて批判していきます。これは実に説得力があります。
 ここでいう「定型」とは、管理主義的教育者とか、体罰教師とか、ダメ教師のパターンを挙げていって、現在の教育の荒廃は教師や学校にあるのだという論のことです。ここでは「子ども=善」「教師(大人)=悪」という単純な図式によって論が展開されているが、具体的な方策は示されず、批判に終始しています。筆者は問います。学校の制度は昔からそんなに変わっていないのに、なぜ今、学校で荒れが起こっているのかと。確かにこれらの論者の学校批判・教師批判からはその答えは出てこないのです。
 本書は社会学的な視点に立ち、現象としての学校の荒れを解読するコードを見つけようという試みです。その詳細は第二部「学校の現象論」で展開されます。現象学的な方法ですから、第一部で出てくる論者が主張するような感情的な「子どもはみんな知りたいと思っている」とか「教師がおもいやりをもって」という言葉や、逆に「いじめられる生徒にも問題がある」という言葉に対して、もう一段上のレベルから解析を加えて批判していきます。
 いじめの部分は第二部で二度にわたって詳しく取り上げていますが、後半の赤坂憲雄の論を引いて述べているところが一番わかりやすいです。赤坂の『排除の現象学』(ちくま学芸文庫)のいじめの記述はじつにわかりやすく、本書よりも説得力があります。ホームレス襲撃事件や自閉症者施設建設への住民反対運動など、社会全体の排除の構造を明らかにしている本です。併せて読むとよいかもしれません。しかし著者の小浜氏は、初めに現在(1985年現在)の教育論・教師論の無定見・誤謬・無責任への痛烈な怒りがあるので、そういう意味での説得力はかなりあります。塾経営者ということで、学校の中をうかがい知り(学校の生徒が学校よりも赤裸々に事実を語ってくれるだろう)、適度な距離を保っているところが、それだけで現象学的視点に立っていると言えるでしょう。
 著者も解決策はこれだというような答えを用意しているわけではありません。しかし教育問題・学校問題を考える上での基本的な視点は提案されていると思います。つまり、社会全体の変化にも関わらず、学校が旧来のシステムで動いていて、それを社会も要求しているのだが、学校外の現実と学校内のシステムや理念との不整合に教師も生徒も悲鳴を上げているのだということです。だから、個々の現象だけを取り上げてだめだだめだと批判しても状況は決してよくならないということです。
 にも関わらず、2012年現在も、個々の教師批判や、学校批判、モンスターペアレンツというような「異常な保護者」批判など、木を見て森を見ずというような批判が展開され、マスコミがおもしろ可笑しく取り上げ、文科省やら、最近は地域の首長までが「改革」を叫ぶとは、今でも本書の批判が有効なのがかえって残念でなりません。