進化の秘密

内臓のはたらきと子どものこころ (みんなの保育大学)

内臓のはたらきと子どものこころ (みんなの保育大学)

 本書は三木成夫氏が「さくら・さくらんぼ保育園」で講演した講演録です。初版は1982年で、今回のは増補版として、三木氏の文章を加えたものが氏の死後に出版されたものです。
 胎児が母体で生命の進化の過程をたどるというのは、今の世の中ではほぼ定説だと思うのですが、その発見の様子が生々しく書かれていて、感動します。三木氏はホルマリン漬けの胎児の標本にメスを入れ、その顔が魚類・両生類・爬虫類・哺乳類と進化していく過程をスケッチしたのでした。
 講演の中でも触れており、別講でも触れている「潮汐リズム」も今や、女性誌や健康誌、スポーツ誌などには普通に載っていそうな話ですが、当時は非科学的とでもいうようなレッテルが貼られていたようです。
 三木氏の内臓感覚の話は、人体を小宇宙と見る古代の叡智が、むしろかなり実態に即した科学的な見方なのだということを納得させてくれます。舌と腕の筋肉は同じ筋肉であり、「ノドから手が出る」という表現には真実が含まれているようです。
 三木氏は、生命を体壁系と内臓系の二系統に分け、明快に説明を加えていきます。面白いのは、顔は、内臓系の筋肉でできているという点です。鷲田清一は顔を、決して自分で見ることができない、他人にさらされた部分というように表現していたと思うのですが、それは単なる言葉の綾ではないと納得させられます。そもそもこの本は、鷲田清一の著書に引いてあったので、読んだのでした。言葉の起源が、幼児のゆびさしと「アー」という声にあるという話はぞっとするほど面白いし、鷲田清一が注目するのもうなずけます。
 動物には「性」の季節と「生」の季節がきちんと分かれているが、人間はそうではない、でも「春の目覚め」のような言葉に残っているといいます。確かに「春は恋の季節」などと安っぽいコピーが氾濫しそうな季節です。実際のところ、体はそういう準備をしているのでしょう。三木氏は内臓感覚の発達した人とは、部屋で朝起きた瞬間に、「ああ夏至を過ぎたころだな」と分かるような人だと言います。何かの本でこんなことが書いてありました。桜前線春一番などがメディアで流されるようになって、自分の感覚で春を感じるよりも、そちらの方を信じる人が増えたと。こちらが「ああ、春だな」と感じているのに、「でも、先生まだ春一番が吹いていませんよ」と言われて腹が立ったというような話でした。私は毎日外を走るようになって、この文章の意味がよくわかるようになりました。天気予報で言っている気温よりも、日々感じられる体感気温の方がずっと季節の移り変わりには敏感です。雨の近づき方もはっきり分かりますし、季節の太陽の光の強弱も感じられます。哲学者の内山節氏が、農夫と話しながら田植えをしていると、手の動きが速くなったため、「どうして?」と問うと、しばらく考えて、雨が近づいていると答えたという話を思い出しました。体が雨の到来を予感し、それが言語化されず、手の動きの早さとして対応している。内山氏は雨の到来は全然感じられなかったといいます。現代にあっても自然に近いところで生活している人は内臓感覚が鋭い。まして古代においてをや。古い言葉に内臓感覚を思わせるような言葉がたくさんあるのも肯われることです。こういうものを近代科学は否定し、蔑んできた。今、過去の叡智に聞こうという謙虚さが生まれているのかもしれません。
 「内臓の感受性のゆたかな子に」という章で「さくら・さくらんぼ保育園」の実践が報告されています。その考えは三木氏の話と同じです。現在の保育園はどうなっているのか知りませんが、これが書かれた当時は、トイレの訓練のために、たくさんのジュースを飲ませて、トイレに座らせ、尿が出ると「ビー」とブザーが鳴る。ビーと音がするとチョコレートをあげる。またジュースを飲ませてトイレに座らせる。それをくり返すと三日で自分でトイレに行くようになる。この方法がアメリカから輸入され、ちえおくれの子どもにも訓練が成功したとはやっているという。さくらんぼ保育園のやり方は、基本的に内臓感覚まかせである。だから何度でも失敗し、下着を汚してしまう。それを保育士は叱りもせずにいつまでもくり返す。「三日でできる」方法に対して、六年間かけてできるようになったちえおくれの子どもが紹介されています。これこそが、三木氏の「心を育てる」保育である、と。内臓の感受性を大切に持つことによって、森羅万象に心をひらく自然人に育ってゆくと。
 本文より「三木先生は、子どもが生まれるや、母の乳房に吸いつき、やがて溢れ出るようになった母乳を十分吸い、六ヶ月頃寝返りができるようになるや、畳を這い回り、異常な好奇心で畳や手にふれたものをなめ廻し、排泄も膀胱から教わって素直に感受できるように育てられたものは、実に内臓の感受性が豊かに育ち、こうした子どもは満一歳頃から呼称音を伴う指差しが出て、やがて、人間だけがもつ強烈な衝動、遠い世界がみたい、という立上りの衝動で直立してゆく、という。これこそ心のめざめであり、人間らしく脳が育ってきたことをみせてくれることであり、その後は一層の好奇心で、歩いていっては、コレナーニ、コレナーニとくりかえしいうことばの世界を急速にひろげてゆき、思考の世界にはいってゆける子どもに育ってゆくのだ、と話して下さった。「思」という字は脳と心(内臓)を合わせたもの、とは実にすばらしい語源である。」