身体で考える哲学

文明の災禍 (新潮新書)

文明の災禍 (新潮新書)

 著者の内山節は、東京と群馬の二重生活を続けながら、里山や現代文明に対して興味深い視点を提供し続けている哲学者です。理性を上位に置いて肉体を軽視してきた近代哲学と、その考えに基づいて形作られてきた近代社会を鋭く批判し、身体で感じる思考を言語化していこうとしているようです。
 今回の著書は「3・11」に関する本です。「3・11」に関する本はこれまでもたくさん出版されましたし、これからもされるでしょうが、著者のような視点で語る本はそうそうないと思います。
 現在言われている復興計画が空々しく感じるのは、死者の供養が復興の出発点になっていないからだと言います。生き残った人々の魂の諒解が必要なのだと。著者はローカルな共同体を未来の見通しとして語っていますが、その風土に合った町や都市の建設には、生きている人だけではなく、死者とともに作る社会があるべきだと説明しています。その土地には死者たちが築いてきた土地や習慣があり、そこに住む人たちは死者と無縁に生きてきたわけではなく、死者たちに見守られているという感覚を長い間持っていた。その感覚は自然との一体感ともつながる感覚でした。だから、自然とともに生きてきた漁師たちはいちはやく、海とともに生きていくと言うことができた。著者は、宮城県気仙沼でカキの養殖をしている畠山重篤さんが「それでも海を信じ、海とともに生きる」というメッセージが津波から何日もたたない頃に出されたことを挙げながら、自然と折り合いをつけて生きていく再出発の具体例を述べています。しかし、今回の被災は、地震津波という自然災害だけではなく、原発事故を伴っていた。この原発には、上記のような魂の次元での折り合いのつけようがないといいます。放射能の危険は、人間の能力では、判断できない。次にどうするべきか、誰にもわからない。放射能の値が大きい地域は人が住めなくなってしまい、それがいつまでなのかもわからない。いわば永遠に未来が奪われてしまった場所だ。こういう災禍は自然災害ではありえない。津波によって海底が洗浄され、海はさらに豊穣になるという。自然の営みは自然の論理に従って未来へ続いていく運動である。創造のために行われる破壊である。しかし原発は破壊だけをもたらし、未来への創造の道を永遠に閉ざしてしまった。それに人間はどう対応してよいのかわからない。そういう危険なものを作り出したのは、知性を優位に置く近代哲学、そして自然を人間の支配下に置く、人間中心主義、欲望の際限のない解放が文明の発展を進めるというイメージであると言います。少し前までは、欲望の際限のない解放が文明を発展させるという考えは、人々に受け入れられてきた。格差の拡大や競争から振り落とされた不幸な人々がいても、総じて日本は豊かになり、飢える人もいなくなった、余暇を楽しむ人も増えた。様々なマイナスはあっても、受け取る果実はそれよりも大きいと人々が感じていた。しかしバブル崩壊後、その感覚が徐々に逆転しつつあり、近代社会を推し進めることで、失われるものの方が多いのではないかと人々は感じ始めていると筆者は言います。筆者の考えでは、「3・11」以前に新しい世界は始まっていた、今の20代、30代くらいの人たちは、物を所有することにこだわらない人が増えてきた、死語になっていた「利他」という言葉が復活した、他者のために生きることに価値を見出す人が増えてきた、と言います。他者のために何かできることを探せば、共同・協同というところに行き着かざるを得ない。その先に開かれた共同体が生まれることを筆者は期待しています。戦後の教育の誤りは、子どもたちに「自分のために生きなさい」「自分を大事にしなさい」と教えたことだと筆者は指摘します。「利他」の反対は「自利」。自利を追求した先に、物質的な豊かさと精神的な空しさ、自然との共生が忘れられた世界が広がっていた。自利の追求の先に、原発事故が起こった。自利の空しさに疲れた人々は、自他の世界に回帰しつつある。
 筆者は原発事故が起こった背景として、専門性ということを行っています。開かれた共同体が利他の作り出すものだとしたら、専門性の共同体は閉じられた共同体です。筆者は言います。専門家とは、「すぐれた専門領域の知識をもっている人のこと」ではなく、「専門領域でしかものを考えられない人のこと」だと。広い思考力をもった専門家は、専門家だから広い思考力を持っているのではなく、自分が身を置いている専門領域に対して批判の目をもっている、あるいは懐疑する目を持っているから、専門領域以外の思考方法も身につけているのだと。専門家は閉じられた共同体に「素人」が入ってくることを嫌がる。政治家は政治の専門家の視点だけで思考し、原発は東電の専門家の視点だけで思考し、どんどん共同体以外の人の感覚からは遊離して行く。その専門性を作り上げているのが、近代以来の知の優位性であり、巨大なシステムに依存する社会であると筆書は繰り返し訴えています。
 NHKで毎週日曜日22:00から「100de名著」という番組があり、毎週欠かさず録画しているのですが、12月は宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』」でした。最終回の4回目の放送で、京都大学こころの未来研究センター教授の鎌田東二氏が、宮沢賢治がこの時代に生きていたらどういうことを言うだろうかというテーマで話している時に、踊り、歌い、祈るということを言っていました。その説明の中で、身体を使って感じること、システムに依存しない生き方、均質化・画一化に陥らない生き方を21世紀の思想と位置づけていました。
 見えている人には同じことが見えている。宮沢賢治は100年以上前に見えていたのでしょう。自然との共生というレベルにとどまらず、賢治は銀河系の一部としての私を見ていました。宮沢賢治は21世紀にこそ読まれる文学なのかもしれません。