読むべきリスト

夜と霧 新版

夜と霧 新版

 いくつかある、生あるうちに読んでおかねばならない本のうちのひとつです。新訳で読んだためか、すぐに読めました。思っていたよりも短い本でしたが、内容も大きさと深さは汲み尽くせないものがあります。人類が行った壮大な実験ともいえる強制収容所の記録は、今後あり得ないものでしょうし、あってはならないものでしょう。逆説的ではあっても、こういう記録が残っていることは、人間とは何かを知るこれ以上にない実験結果です。
 絶望と死との関係を記した部分は大変興味深いですし、強制収容所という究極の状況でなくとも、今の私たちの生活にも深い関係のあることだと思います。
 1944年のクリスマスと1945年の新年の間の週にかつてないほどの大量死が発生したそうです。しかしその原因は苛酷な労働や食糧事情の悪化ではなく、多くの被収容者が「クリスマスには家に帰れる」という希望にすがっていたことに求められるということです。希望が打ち砕かれた時の失望が、人を実際に死に至らしめるというのです。
 「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意味も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。『生きていることにもうなんにも期待がもてない』」
 フランクルはこのような心理に陥った人に対して、コペルニクス的転回が必要だと言っています。「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」と。この言葉は、生きることの意味を問い続けるむなしさにとりつかれ、絶望の淵にあえぐ現代のすべての人に向けられるべきでしょう。年間自殺三万人の自殺大国、日本。世界は私に何をしてくれるのか、運命は私に何をしてくれるのか、何を与えてくれるのかではなく、私は世界に、運命に、何をすることを期待されているのかという問いの前に立つことを選ぶのです。フランクルは言います。「生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない」と。
 収容所から釈放されたあとの心理状態について、フランクルは重要な指摘をしています。今ならPTSDとして広く知られていることだと思います。フランクルは「精神的な潜水病」と言っています。苛酷な状況に慣れてしまった精神が、むしろ抑圧から解放されたあとに危険にさらされるのだと。「とくに、未成熟な人間が、この心理学的な段階で、あいかわらず権力や暴力といった枠組にとらわれた心的態度を見せることがしばしば観察された。そういう人びとは、今や解放された者として、今度は自分が力と自由を意のままに、とことんためらいなく行使していいのだと履き違えるのだ」「今もまざまざと思い出すのでは、収容所で一緒だったある仲間だ。彼はシャツの袖をまくり上げ、むき出しの右腕をわたしの顔につきつけて、こうどなりつけたのだ。『うちに帰った日にこの手が血で染まらなかったら、切り落とされたっていい!』強調しておきたいのは、こんな暴言を吐いた男はけっしてたちの悪い人間ではなく、収容所でも、またその後も、いちばんいい仲間だったということだ」この下りを読んでいると、心が寒くなるような気がします。暴力は連鎖するのです。このような抑圧と解放による抑圧者の主客逆転は、小さなレベルでなら、家庭と学校とか、家庭と職場とか、クラスとクラブ活動とか様々な場所で起こっている気がします。
 フランクルは上記の他に、抑圧から解放された人間が直面することについて、収容所の体験を周囲の人たちが、その人が体験したことに見合う評価をしてくれないことへの失意や不満と、収容所内で自分を支えていた「誰かが待っている」という期待をすべて裏切られ、誰も待つ者がいないことへの苦しみを述べています。フランクル精神科医としてそれらの人びとの失意を克服させるのは容易ではないとしながらも、使命感を呼び覚まされるとしています。この言葉には驚かされます。なぜなら、フランクル自身、両親、妻、子どもたちを収容所で失い、ほとんど唯一の生き残りなのですから。
 本書は「すべての経験は、あれほど苦悩したあとでは、もはやこの世には神よりほかに恐れるものはないという、高い代償であがなった感慨によって完成するのだ」と結ばれています。何度も読み返したい本です。