過去を見るのは難しい。

60年安保 メディアにあらわれたイメージ闘争

60年安保 メディアにあらわれたイメージ闘争

 副題にある通り、主に当時の新聞を丁寧に読み込み、普及し始めたテレビも活用しながら、メディアを通して60安保がどのように国民によって「消費」されたかを明らかにしている本です。
 著者は1962年生まれということで、私より10歳ほど年上なだけで、1960年代の雰囲気の分からなさはある程度共有していると思います。筆者の「今の若い世代の人にはわかりにくいと思うが」という表現にその気持ちが表れています。
 意外だったのは、現在いわゆる「右」の論客とされているような人たちが、当時の「左」の側で活動したり語ったりしていることです。また、共産党の内部も反共の内部も分裂を繰り返し、当時もよく理解されているとは言い難いし、今から見ればなおさら分からないことが多いということです。しかしそれは、現在の様々な団体に関しても同じ事なんだろうと思います。日教組と全教、カトリックプロテスタント日本基督教団とバプテストなど、端から見たら何が違うのかわからないと思います。当事者にだって分かっていないでしょう。その点では当時、いわゆる「活動」に加わっていた人たちも自分がどうしてそちら側にいるのか分からずに関わっていた人も多かったと思います。
 筆者自身言っているように、60年安保や70年安保について書かれた書物は多い(しかし60年安保は扱いが70年より小さいらしい)が、ほとんどはどちらか側から書かれた回顧的なものが多いそうです。そのため、その分析はどちらかが正しかったというような偏りが出やすい。しかし本書はかなり当時の資料をそのまま使おうと試みているようで、もちろんその取捨選択にすでに何らかの意図は加わるわけだけれど、当時の新聞を整理して展示しているのは、感情移入しようのない世代にとってはありがたい本です。
 本書のはじめに出てくる、安保闘争のデモ行進と天皇臨席の満員の神宮球場が同時に行われている様子が、結局のところ本書の語りたいことをよく表していると思います。当時の日本はすでに高度経済成長に入りかけており、食うのに困るような生活をしていたわけではなく、極端なことを言えば、安保闘争も野球も同じようなお祭り騒ぎだったのではないかと思われてくるのです。もう本気でアメリカの下で発展していく日本の姿以外を描いている人はいなかったのでしょう。少なくとも一般大衆の感覚としては。孤立した全学連の学生に同情が一時的に集まったのも、映像で白虎隊の悲劇的な最期に感動するのと同じような感覚だったのではないのだろうか。そういうイメージをメディアが増幅して大衆が消費していく。その中で現実のリアリティはむしろ減衰していく、一種のショーと化してしまうのでしょう。現代の私たちからするともう当たり前になっているそうしたメディアとの付き合いも、60年代にその原型が作られていったようです。