雨の日は読書

 自分の死を経験することはできない。誰かの死を経験することで、自分の死を想像することしかできない。死者をどのように扱うかは、死者の側ではなく、生者の側の要請に基づく。近代以前は宗教が人の死に意味を与え、生者の死に対する理解を得させていた。しかし、近代に至って、人類は死後の世界を想像できなくなった。筆者はそれをカントから説き起こす。アンチノミーの論理を使って、死は哲学の課題から外されてしまった。超越的な外部を否認する自己完結した個人が、カントの到達した近代的人間観だが、死の他者性は解決されたわけではない。カント派学者は、それを国家に求めた。普遍的意識への没入が個人の自由の自己実現であるという形で、国家を個人に優先する普遍的な存在と規定したのである。こうして宗教に代わって、国家が個人の死に意味を与えるようになった。ここで、国家が引く境界線が、身内の死者と敵の死者を分けることになった。敵の死は悲しむべき死ではなく、人ごとの死であり、身内の死者は悲しむべき死者である。筆者はそれを一人称複数(われわれ)の死と、三人称(彼ら・彼女ら)の死と呼ぶ。生者にとって誰を死者として扱うかということが、生者自身のあり方を決定する。お国のために忠義の死を遂げるのか、国家の敵として逆賊の死を遂げるのか、その境界線は国家が引く。死者と共同体についての基本的な考え方が序章で丁寧に描かれている。第一章以下は、具体的に会津藩の死者の扱われ方を詳細にたどっていく。
 会津藩戊辰戦争において、朝敵として討伐された。今でも会津の戦死者は靖国神社に合祀されていない。国家の中にありながら、国家の敵として、しかも国家の中にあり続ける特異な存在だ。筆者はここで、佐川官兵衛という人物に焦点を当てる。佐川官兵衛戊辰戦争で活躍した会津武士だが、能力の高さを買われて、西南戦争では官軍として戦って、阿蘇で戦死している。佐川官兵衛靖国神社にも合祀されている。この佐川官兵衛会津でも長らく忘れ去られ、阿蘇でも一部の人たちが慰霊碑を建てようとしたが、有志者が集まらず実現しなかった。ところが、1965年になって再発見され、次々と慰霊碑や記念碑、記念館が建てられ、1991年には小説化された。佐川官兵衛第二次世界大戦が終わって20年も経ってから、会津武士の文脈で復活するのである。筆者はこの謎を生者の要請による、死者の価値の問題としてさらに論を進めている。
 会津藩の人々は戊辰戦争後、逆賊の子孫として肩身の狭い思いをしなければならなかった。それが時代が下るにつれて、会津=佐幕=敵という文脈から、真の勤皇を目指した悲劇の会津へと転換していく。1915年、禁門の変における会津藩士戦死者が靖国神社に合祀され、1928年には、会津藩松平容保の孫、松平節子と昭和天皇の弟、秩父宮との婚姻が成った。また、徳富蘇峰はさかんに会津武士の勤皇忠節を説き、日本精神の模範とされるようになっていく。ことに若年層で組織され、会津落城の折には自刃して全滅した白虎隊は大いに称揚され、ドイツやイタリアからも記念碑が送られている。1938年には若松市ヒトラーユーゲントの訪問を受けている。当時、若松市は歩兵第六五連隊が駐屯し、敗戦まで軍都として栄えていたのである。
 日本が敗戦した後の会津は、軍都としての記憶を封印・忘却し、戊辰戦争を中心とする、悲劇の会津を全面に押し出していく。そこで大きな影響を与えたのが、司馬遼太郎の『王城の護衛者』であった。会津藩はだまされたのである、不器用で一途な会津というイメージができあがった。会津戊辰戦争以来、虐げられ、明治政府からも徹底的にいじめられていたというイメージが生まれ、大戦末期の軍国主義の象徴のような会津のイメージは忘却された。郷土史家、宮崎一三八は、「会津戦争の悲劇をもっと早く日本人が知っていたならば、太平洋戦争の悲劇は避けられたかもしれない」と述懐していたそうだ。
 ここで筆者は慰霊行為と、負い目、うしろめたさからの解放というテーマで詳しい説明をしている。戊辰戦争の佐幕側死者は、国家による慰霊を受けていない。慰霊を受けてそれが儀式化するくらい年月が経つと、死者は忘却されていく。しかし、慰霊されずに残っている死者は、生者の側に、うしろめたさや負い目が残り、それが死者を記憶させ続けるという。また、弱さがそれを増幅する。白虎隊が会津であれほど観光資源として大当たりした背景には、幼い子どもたちを逆賊として無残に死なせてしまったという気持ちを強烈に生者の側が持ちやすいからという。抵抗力のなさ、弱さが非業の死をより浮き上がらせる。ここに至って、はじめの佐川官兵衛の再発見と称揚が論理的に理解できる仕組みになっている。筆者はこうした敗戦後の戊辰戦争の死者と現在の会津を結びつける観光史学の限界と現状(現在は会津の自然や伝統文化、古寺巡礼が観光の中心になっていて、白虎隊など会津武士は扱いが小さくなっている)を紹介している。
 終章で、再び死者をどのように扱うかの問題に戻る。どの死者を想起し、どの死者を忘却するのか、国家が戦争を行っている限りにおいては、死者は戦死者であるが、世代交代して、死者が戦死者ではない死者となった今、国民国家は、その拠り所を失いつつある。戦死者は三人称化する(他人事となる)。国家は「敵・味方」を作って、戦死者を出してこそ国家として存続しうるようだ。その文脈で靖国問題を捉えて、靖国神社の祭神を取り下げたり、分割することは、日本という共同体の内部に亀裂を認めることになってしまう。
 筆者は最後に、私が向き合う死者と向き合わない死者に境界線を引く行為は常に非倫理的だが、境界線の越境に開かれてあるという倫理性を志向し続ける先に次の世界のあり方を示唆している。
 本書を読んで、改めて歴史の不連続性を思う。今、自分が思考している過去は、今という地点から書き換えられた過去である。そういう意味では文書などに固定された過去というのは実に貴重で、その時代、その空気の中で何があたりまえだったのかを思考することは、過去を過去として見ていく大切な視点だと思う。まさに思考できないことを思考する作業だが。