ことばの世界

考える人 2010年 08月号 [雑誌]

考える人 2010年 08月号 [雑誌]

 村上春樹のロングインタビューが掲載されています。三日間に渡る本当のロングインタビューです。村上春樹はインタビューに応じないことで有名ですが、アメリカでもその流儀を通して、今ではそういう存在として認められているそうです。その事もインタビューの中で答えています。基本的に好きなことしかしない、することは徹底的にするという人だと改めて思いました。
 さて、面白かったのは、最近読んだ『意識と本質』や『ことばの雑記帳』にも通じる、ことばの問題について小説家の視点から語っているところです。『ねじまき鳥クロニクル』で「壁抜け」の話が出て来て、とても深いところで何かにつながってしまう話が語られています。それは『1Q84』の世界、青豆が高速道路から降りていく話に繋がっていくのですが、その話を読みながら、『意識と本質』に書いてある、「分節1→無分節→分節2」の話を思いだしていました。目の前に見えている世界は仮象であり、本質としての絶対無分節者が存在する。それは「無」とも表現される。その本質に一度到達し、再び言葉によって分節された世界に戻る。そこでは一見すると「分節1」の世界と似ているが、そうではなく、そこでは何物も何物にでもなる可能性のある流動的な世界です。また、フロイトユングの言う、集合的無意識の話なども想起させるお話です。かつて河合隼雄村上春樹と対談した読み物を読んだ時に、「小説家があんまりわかっちゃうとだめなんだよな」と村上春樹が言っていたことを思い出しますが、意識的に、ではなく、無意識的につながる異界のようなところにすっと移動しているような感覚が村上春樹の世界にはあります。それを書くためには理屈を一度捨てて、無意識領域に預ける作業が必要なんだと思います。
 もう一つ、前々から村上春樹の作品を読む度に「異界」の存在に惹かれていました。折口信夫言うところの「話型」の力を村上春樹作品から受けるからです。インタビューの中で、「僕が物語という言葉で表現するものを全面的に受け入れてくれたのは河合隼雄だけだった」と言っていますが、ここでいう物語というのは、物語としてしか表現し得ない本質なのだと思います。かつてそういうものは昔話や民話、神話の中にたくさんあったはずです。村上作品には「異界訪問譚」とでもいいたくなるような話がたくさんあります。それが昔話や神話と違うのは、異界を訪問するのが、「貴種」のような特別な存在ではないこと、異界を訪問した者が帰って来ても特別な力を手に入れたりしていないこと、場合によっては何かがとりかえしのつかないほどに失われてしまうことが起こること、でしょうか。もちろん、村上春樹は「話型」なんて意識していないでしょう。自然とそういう形におさまっていったのだと思います。それは世界各地の神話に共通する話形があるのと同じで、ある一定以上の深さに掘り下げていくと、人類共通の思考のパターンみたいなものに行き着くのかも知れません。そういう意味では村上作品は現代の神話を生み出し続けているのかもしれません。神話はいつでも現代を語るための機能だからです。
 インタビューの中で「リトルピープル」は地から這い出てくる正体不明のもので、作者も何だか分からないと言い、聞き手が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』で出てきた「やみくろ」も例として挙げていたが、ここを読みながら『意識と本質』の「M領域」を思い起こしていました。イメージの世界。絶対無分節者と表層意識との間にある、無意識の表層意識に近い部分で見えてくるイメージ。これは文化的に規定される。仏とか鬼とか天使とか胎蔵曼荼羅とか……。そうした正体不明のものが現実世界に這い出てきてしまう。そういう異界として設定された世界で、価値や常識をもう一度問い直して、世界を再構築して行く。村上春樹のしたことはそういうことなんじゃないかと思います。
 暴力の問題にもインタビューで少し触れていました。個人の暴力ではなく、国家などのシステムの暴力。イスラエル賞受賞の話題に触れて、再び取り上げていました。『アフターダーク』を読んだ時に、日常のすぐ隣にある暴力の問題をかなり正面切って取り上げているなと思いましたが、『1Q84』にはもっとシステム化された暴力が描かれています。『羊をめぐる冒険』でもスマートな暴力については触れられていました。村上作品に惹かれる理由はこの辺にもあると思います。そして村上春樹の描く「僕」の清々しいまでの潔さ、どんなに不利であっても自分らしさを売り渡さない姿勢に、最初期の作品から惹かれ続けていまいた。まさに「壁」ではなく「卵」の側に立ち続けるということなんでしょう。この「壁」は『世界の終わりと……』の壁でしょうね。もう一度村上春樹を再読したくなりました。