お勉強の記録

12/15(火)御堂会館ヒューマンフォーラム
被差別部落の起源とその後の変遷−仏教とのかかわりにもふれながら−
寺木伸明桃山学院大学教授
◇歴史を学ぶ意味
 古い時代と現代が乖離しないように。過去を発酵させて現代に生かす。
◇部落差別の歴史を学ぶ意味
 政治・宗教・経済による差別の構造が分かる。
被差別部落の起源と仏教との関係
 六世紀半ばに大乗仏教が日本に広まる。そこにはヒンドゥー教のケガレ観が入っている。皮革を扱う人、死体処理をする人を「旃陀羅(せんだら)」と呼び『妙法蓮華経』などの中で差別的に扱っている。また、『大般涅槃経』などでは屠畜・漁労・獄卒などを「悪業」としている。センダラとはヒンドゥー語のチャンダーラを音訳したもので、アウトカースト(ダリッド)のことである。
立派な菩薩はこのような人に近づいてはならないと教えている。
 空海真言宗の開祖)の言葉に旃陀羅(せんだら)は仏の弟子ではないとある。
 無住(臨済宗の僧侶)の言葉にインドの旃陀羅(せんだら)とは、日本の癩者、乞食、穢屠のようなものだと書かれている。
 法然(浄土宗)→親鸞浄土真宗)に至って、旧仏教とは大きく変わり、強い平等主義が被差別民に大きな影響を与えた。

被差別部落の起源と延喜式
 延喜式(927年制定)に「触穢」の規定がある。死や出産のケガレが書かれている中に、特に屠畜業者は居住の差別が規定されている。

被差別部落の起源は?
中世政治起源説or中世社会起源説or近世政治起源説
 いずれも定説はない。ただ、豊臣政権の検地により強化・定着したということはいずれの説でも一致している。
 検地帳に「かわた」の記載がある。「かわた」と書かれた場所は現在の被差別地区と重なる。 検地以前は職業差別だったものが、身分差別に転換したということが言える。
一向一揆
 土一揆は最長で8年、一向一揆は最長で100年続いた。結びつきの強さが全然違う。
一向一揆親鸞の教えが浸透した宗教的な結びつきがあった。親鸞はすべての人がひとしくおなじであることを説き、それが一般民衆に広く受け入れられたのであった。
 戦国期には蓮如が一般民衆の心をとらえ、本願寺を拠点とする一大勢力となった。「講」という宗教的な結びつきが「一揆」へと発展した。本願寺織田信長の勢力を10年に渡って持ちこたえた。信長は本願寺の直接攻略が困難と見るや、伊勢・長島の一向一揆(2万人)つぶし、補給路を断った。越前の一向一揆(3〜4万人)は信長の盟友前田利家につぶされた。当時の戦国大名は民衆をいかにして抑えるかに苦心した。その後に近世はやってくる。
 最後の一向一揆は秀吉によってつぶされた。今の貝塚のあたり。JR和歌山駅の近くの「大田」というところに遺跡がある。阿倍野には53名の首がさらされた。
 江戸時代にキリシタン弾圧の中で宗門改制度が発足。身分が完全に固定される。
◇近世部落の生業
 関西は牛、関東は馬が中心だった。死馬牛をただで取得できるシステムがあった。それぞれ縄張りがあり、どこで死んだかによって、引き取り手が決まっていた。
 1疋の牛で一両のもうけがあった。米一石。5万〜10万くらいか?
 牛は角も蹄も売れる。馬はたてがみ・尾も売れる。骨は骨粉にして肥料とする。鹿児島の薩摩藩は大阪から大量の骨粉を買い付けていた。桜島の噴火などで土地がやせていたからである。 南王子村では雪駄の収入が年商4億あったと言われている。雪駄は町人の履きもの屋は扱わない、独占商品だった。南王子村では牛肉の販売も行っていた(明治から肉食が始まったというのは誤った考え。平安時代から肉食は馬も牛もしていた)。干し肉や味噌漬けなど。
◇江戸時代
 部落の8〜9割が浄土真宗
 浄土真宗でも部落内にある寺を「穢寺」と称していた。
 差別戒名はほぼすべての宗派で行われていた。「畜門」「革門」「革女」などと書く。また、「霊」の字を略字にするのも差別戒名。
◇現代に残るケガレ観
 清めの塩 死者や葬儀屋を穢れていると考える。