チェス

猫を抱いて象と泳ぐ

猫を抱いて象と泳ぐ

 題名からは予想も付きませんが、チェスのお話です。でも僕のようにチェスについて何も知らなくても楽しめます。
 主人公は生まれつき口が開いていなくて、手術により口を切り、そこに脛の皮を張り付けたという少年です。偶然知り合ったチェスの上手な廃バスに住む男をマスター(師匠)としてチェスを覚えていきます。アリョーヒンという実在のチェス指しを模したからくり人形の下に入りこんでチェスを指すことになった少年はリトル・アリョーヒンと呼ばれ、海底チェス倶楽部といういかがわしいチェス倶楽部で評判になります。人形は相手のチェスの駒を取ることができないため、助手として肩にハトをのせた少女が現れます。少年は少女をミイラと呼び、二人の間には淡い恋心も生まれます。最後はリトル・アリョーヒンがチェス指し専用の老人ホームで事故で亡くなります。この人形の下に入りこんでチェスを指した人物は実在の人物であるそうです。
 さて、小川洋子の新作ですが、前作『ミーナの行進』よりもう少し影の多い作品です。でもミーナと主人公の女の子の間にあった親密な温かさは、この作品にも確実にあります。でもむしろ『妊娠カレンダー』の頃にあったような残酷さがもっと引き延ばされて全体にトーンとなって張り付いているような気がします。主要な登場人物はことごとく異様な部分を持っています。大きくなりすぎた象、大きくなりすぎたマスター、口に臑毛が生えてしまう少年、ミイラと名づけられたどこか現実味の薄い少女、それぞれが何か日の当たる真っ当な世界から一歩引いた場所にいて、それぞれがお互いにだけ分かる言葉で親密なつきあいをしている。チェスの世界ではそれぞれが自由に動き回り、宇宙規模で感応し合っている。でも現実の世界では小さな箱に閉じこもるようにした小男や、身動きもままならない太りすぎの男であったり、壁に閉じこめられたミイラだったりする。しかし作品は爽やかさを失わない。寂しさはあっても。それは登場人物達がそれぞれ自分のあり方を肯定的に受け入れ、楽しんでいるからだと思う。
1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 1

1Q84 BOOK 2

1Q84 BOOK 2

 一読した感想としては、「これで終わり?」というものでした。続編がありそうな終わり方です。朝日新聞の書評にあったように、「空気さなぎ」の小説のように、書き換えがどのようにも可能な小説としてこれで終わっているのかもしれませんが、どうもすっきりしません。青豆が高速道路で死んでしまったのか否か、天悟の家にとどまっているであろう、ふかえりはどうなったのか。リトルピープルとは何物か。さきがけとは何か。あまりにも未解決の部分が多い。ふかえりについて言うと、あのふかえりは本当にマザ(母)の方なのかどうか、ドウタ(娘)ではないのか。でもドウタは成長するのかどうか。マザだとすると、ふかえりが天悟と交わった時、「セイリがない」と言っていたのはどういう意味か。また、ふかえりと天悟の交わり方は、リーダーが青豆に語った「多義的な交わり」と似ている。天悟はリーダーの後継者になり得る人間なのか。
 さて、疑問は色々と出てくるのですが、とにかく面白いのは間違いありません。構成は『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を彷彿とさせる交互に違う話が出てくる形式です。青豆のいる世界はちょっとハードボイルドの世界で、こういう世界を描く村上春樹は本当に面白いと思います。うさんくさい人物もたくさん出てきますし、妙に体を鍛えたりすることにマニアックな人物も出てきます。これは『羊をめぐる冒険』や『ダンス・ダンス・ダンス』などにもお馴染みです。『アフターダーク』でかなり正面から扱った「暴力」のテーマが掘り下げられています。日常に潜んでいる暴力。何食わぬ顔をしている暴力。そういうものに立ち向かっていく主人公の姿もお馴染みです。天悟は『風の歌を聞け』の「僕」の独立と彼なりの正義感を引いています。これは『海辺のカフカ』でも中心的なテーマでした。また、『アンダーグラウンド』で深められたであろう、カルト宗教のテーマ。今回はそれが中心的に扱われています。宗教の儀式や組織に焦点が当てられているというより、カルトとは何か、何が人をそこに引きつけていくのかを扱っているようです。『神の子どもたちはみな踊る』という作品は阪神淡路大震災にまつわる短編小説集ですが、どこかで起こっている自然災害と日常生活への微妙な影響などは、リトルピープルの歴史への介入(?)のモチーフとどこか通底するのかと思ったりしました。
 今回は最近、加藤周一を読んだためか、日本文学の「細部に描写にこだわる」性質を村上春樹に感じました。村上春樹も日本文学の作家だからなのか、あえてそういう技法を取り入れているのか。とにかく今回も細部の描写の見事さはすばらしいです。