辺見庸講演

 一度家に帰って一時間くらい休憩して、6:30開演の辺見庸講演に四天王寺夕陽丘クレオ中央に行ってきました。辺見氏は体も悪い上に風邪まで引いていたらしいのに、結局9:40までの講演でした。とても示唆に富むお話でした。
 秋葉原の無差別殺傷事件を切り口にしたお話でしたが、内容は多岐に渡りました。カフカの『審判』を引いて、ある時急に異常な事態に巻き込まれてしまう被害者と加害者、そして傍観者、それらが実は等価なのではないかというアレゴリカルな仮説に基づいて話は進められていきます。僕はそれを聞きながら、カフカではなく村上春樹を想起していました。村上春樹の『海辺のカフカ』は辺見氏に指摘されて気がつきましたが、秋葉原の事件を予言しているような所があります。被害者と加害者と傍観者が等価だという感覚は僕も大教大池田の事件以来ずっと感じていたことなので、頭を整理してもらった気持ちです。宅間被告をすぐにでも世の中から抹消したいとでも言うように死刑を行ってしまった時、僕はとても違和感を感じたのを覚えています。秋葉原の事件の加害者も含めて、格差の最下層にいる人たちをプレカリアートプロレタリアート:無産者・労働者;をもじった言葉)というそうですが、彼らへの愛の視線を持ちうるかどうかが今後の世界のあり方を決めていくだろうというのが今回の辺見氏の講演の締めくくりでした。プロレタリアートは団結し、デモ行進をし、反権力を標榜し、という運動を形づくってきましたが、プレカリアートはただ悲しく、孤独で、時々痙攣の発作のように事件を起こしてしまう。彼らは今後増えていくだろうと辺見氏は予測しています。そういえば、辺見氏が驚いたこととして、2ちゃんねるか何かに、「僕たちが何度もデモ行進をしてもメディアは無視し、国は変わらなかったが、秋葉原でテロを起こせば、メディアが注目し、国は変わろうとしている、やっぱりテロだよね」というような書き込みがあったそうです。秋葉原の事件を「テロ」ととらえていること、しかも肯定的にとらえられていることが挙げられていました。
 他に辺見氏が「予言的に」として指摘していたこととしてこういうことを言っていました。これだけ自由主義経済が行き詰まってくると、国家による経済統制が必要だという意見が出てくるだろう。その時に世直しとか、改革と称して国家主義が台頭してくるだろうと。辺見氏は前回の大恐慌時代とその後の急速な国家主義の台頭について、何度も現代との類似点を指摘しながら話を進めましたが、聞けば聞くほど空恐ろしくなってきます。今、ヒトラーがいれば、すぐにでも戦争に突入できそうです。
 話が多岐に渡り、すべてを書けませんが、印象に残ったとことして、インターネットが普及してグローバル化が進んで、世界は一つの村になると主張する論説があったが実際には人間関係の分断が急速に広まった、という指摘で、これは僕も日々痛感していることです。僕はこうして日常的にネットもするし携帯も使いますが、基本的にこれらのツールに懐疑的です。おそらく生まれたときから身近にあったものではないからでしょう。それはコンビニのような「24時間営業」にしてもそうです。生まれたときからそれらがあった人たちにとってはそうではないでしょう。村上龍がテレビについて同じことを書いていました。
 他にもメディアの役割など多く述べていましたが、もうやめにします。ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』をぜひ読むようにということだったので、早速読もうと思いました。講演はほぼ満員で、長時間にも関わらず集中して多くの人が聞いていました。

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

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海辺のカフカ (下) (新潮文庫)

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