メンデル―遺伝の秘密を探して (オックスフォード科学の肖像)

メンデル―遺伝の秘密を探して (オックスフォード科学の肖像)

 メンデルと言えば、なつかしき高校生物の授業を思い出します。しかし、この人物が修道士で、修道院長まで勤めた人物で、その業績(いわゆるメンデルの法則)は彼の死後30年以上経ってから「再発見」されたとは全然知りませんでした。1822年に当時ハプスブルク帝国のシレジア地方、ヒンチーツェの村に農夫の子として生まれました。そこは後にオーストリア=ハンガリー帝国になります。メンデル自身はドイツ語を話し、後にチェコ語も勉強して身に付けました。英語は話せなかったそうです。民族的な対立もある複雑な地域で、修道院長として政府の修道会の納税義務に反対する運動に奔走したり(そのことで体調を崩して亡くなったようです。修道会への納税義務はそれまでになかったものが、政府の方針で急に変わったのに、メンデルは反対していたのです)、修道院内の人種間の対立に心を砕いたりといった仕事の合間にエンドウ豆を含めた植物の交雑実験を繰り返して、優れた論文を発表しました。しかしその論文は当時の科学界に全く無視されました。メンデルは植物学を学ぶ者としては当時は異例だったようですが、数学や物理学をしっかりと学び、物事を数字で把握、説明する習慣があったからです。数学に疎い当時の植物学者にはほとんどその重要性が理解できなかったのでした。そういうわけで、メンデルはむしろ生前は気象学の権威として、また養蜂家として知られていました。メンデルは論文が無視されても気にせずに実験や観察を繰り返し、友人に手紙でその成果を報告しており、それが現代でも価値のある論文として通用する内容だということです。この本では最後はヒトゲノムプロジェクトにまで及んで、その研究の基礎をメンデルが築いたとまとめています。メンデルは1884年に亡くなっています。30年後に3人の異なる科学者によって再発見された時点でも、メンデルの理論は十分には理解できず、法則とは言えないと批判され、また、共産主義者ナチスドイツにも否定され、陽の目を見るのにさらに時間がかかります。また、20世紀になっても、メンデルの実験結果が「できすぎている」ことに、データ改竄疑惑が長くあったようです。現在ではメンデルのデータ改竄疑惑はなかったとされています。
 好きなことを研究し続けて、その業績が認められなくても気にせず、ひたむきに研究に没頭し、教育者としても宗教者としても優れていたメンデルは実に尊敬すべき人物です。