荀子

荀子 (講談社学術文庫)

荀子 (講談社学術文庫)

 儒者の中でも孔子孟子に比べて扱われる機会の少ない荀子。その弟子である韓非子や李斯のよほど有名です。孟子の「性善説」を説明する時に「性悪説」が取り上げられるくらいで、どちらかというと異端扱いです。思想家を紹介する時にその人の主な著書や弟子のまとめた言行録が重要な手がかりになるのは当然ですが、どういう時代に生きたのかということも同じように重要だということがこの本を読んでよくわかりました。特に春秋戦国時代の遊説家たちは、今でいう思想家や哲学者のイメージとは違い、どちらかというと訪問販売をしている営業マンに近いような気がします。モノを売るのではなく自分の思想を売り込み、国政に携わろうという目的があるところが違うところではありますが。諸子百家という言葉は漢の時代になってから春秋戦国時代の生きのいい思想家たちがいなくなってから、きれいに分類されてしまった名称で、同時代の人たちが自らを規定した言葉ではありません。ですからある思想家の思想も後代から見れば先行するさまざまな思想を自らの思想に組み入れて成り立っています。本書で何度も強調していることは、荀子の思想史的な位置づけです。筆者は春秋戦国時代儒者を権力に近づいて国政に携わろうとしながら、果たせない存在として描きます。そして果たせなかったからこそ、鋭い批判者の位置でいることができたと。孔子は国政に携わっている時期もありましたからそういう意味で面白いのですが、孟子になるとかなり理想論を前面に出して君主を鋭く批判しています。では荀子はどうかと言いますと、もはや秦の統一は近いというところまで来ています。弟子の李斯が宰相になり、韓非子を読んで感動した秦王政が中国を統一して始皇帝と名乗るまであと少しの時代に来ているのです。群雄が割拠してどこが統一者になるかわからないという時期ではなく、そういう意味ではまだ理想を語ることができた時代と言えるかもしれません。孔子は自分に小さな国でも任せてくれれば三年で周のような国を作ってみせると言っていましたが、荀子の時代には超大国秦に対して儒者がどういう立ち位置をとる必要があるかを考えなければならない時代になっていたのです。
 孔子孟子堯・舜・禹のようないにしえの聖王を理想化してその治世を現代の王も見習えば理想的な政治ができると説きました。荀子は、古代の聖王たちが作った法や慣習をそのまま当今に使うのではなく、それらを基としながら、その時々の王が時代に合わせて改変していくべきだといました。しかし君主が恣意的に改変するのではなく、あくまで礼に従ってという条件付きです。荀子は現実には殺戮に殺戮を重ねて天下を統一しつつある君主を無視して理想論を語るわけにはいかない時代に生きていました。現実の王を認めつつ、儒者としての理想を語る仕組みが、君主の権威を礼の下に置くという考えでした。荀子は王になれない君主を「覇」として容認しました。韓非子や李斯は師の思想を受け継ぎながら、礼を君主の上におかず、法を君主が作りそれが規範となるという考えだけを発展させ、臣下を君主の下に秩序立ててピラミッド型の統治体制を作り上げました。この秩序自体は儒者の思想を受け継いでいます。法家と後に呼ばれる彼らとは違う系統の弟子達は秦の下でどのような儒者となっていったか、こちらも礼を君主の上に置きつつ現実と理想に折り合いをつける(現実の君主を認めつつ認めない)荀子の思想を受け継げず、君主を絶対化する方向に流れていきます。覇王である君主を聖王に近づけるために礼による矯正をかけていくのが荀子の思想でしたが(これはそのまま「性悪説」にあてはまる)、荀子の弟子たちは君主をそのままの状態で聖王として扱ってしまうということでしょう。
 儒者が権力の内部に取り込まれていった結果、儒教は国教になり儒者は王を支える官僚として国家機構を強化していくこととなります。荀子は『荀子』の中で「非十二子篇」という部分で他の思想家を排撃しています。筆者は結果として荀子諸子百家の思想の最後に位置する思想家としてその時代を終わらせる役割も持ったのではないかと言っています。荀子の後の儒者たちはこの「非十二子篇」を引いて他の思想家を排除し、儒教は正統な思想として国家を支えていくことになるのです。