花鏡

風姿花伝 (岩波文庫)

風姿花伝 (岩波文庫)

 世阿弥能楽論は本当に面白い。芸能論として面白いだけでなく、人生論としても十分に楽しめます。『花鏡』にある、「知習道事」に、「至りたる上手」の能を初心者が安易にまねることを戒めている部分がありますが、実にいろいろなことを教えてくれます。上手は、長い年月をかけて心も身も十分に働かす基本を極めており、それでいて心を十分に動きは七分くらいに控えて安々と演じているが、それを初心者が見た目のまま真似ると心も身も七分になってしまい、進歩が止まってしまうというのです。振り返ってみれば新任の時には一生懸命仕事をしていましたが、今よりも仕事の能率は悪く、下手でした。今は昔ほど全力で仕事をしていないけれど、新任よりもいい仕事をしている。よい意味で「いい加減」になってきたということでしょう。そういうある程度の熟練者の仕事の仕方を新任が真似をしたら、確かにうまくいかないだろうし、決して上達しないだろう。やはり新任の頃にはバタバタと必死に仕事をし、それでいて失敗を重ねて恥をかくような体験が不可欠であると思います。
 世阿弥は若い人の芸が「転読」になることを戒めています。「転読」とは経文を主要部のみを飛び飛びに読むことをいいますが、能に応用して、師につかずに無体系に人まねをすることを言います。師について順番に物まねをしていくことを世阿弥は重視しています。若い為手が達者に物まねをして、転読であっても一時的に名声を得ることはあっても、年がゆけば能が下がり、決して名人にはなれないといいます。なるほど、若い頃はその若さだけで乗り切れるのですが、年を重ねていくとそうはいかない。それまでに何を積み重ねてきたかの真価が問われるわけです。『風姿花伝』の「年来稽古条々」には、七歳から始まり五十有余までの能演者のあり方や注意点を述べていますが、若いときは若いというだけで花があるが、それは本当の花ではなく、名人は五十を過ぎても見事な花がある人もいるとしています。これはまことの花であり、散らずに残る花であるとしています。三十四・五歳くらいが能の盛りで、ここで天下の名望を得られないようでは、四十からは能が下がっていくだけだといい、「ここにてはなほ慎むべし。このころは、過ぎしかたをも覚え、また行くさきの手だてをも悟る時分なり」と書いています。これは現代にも通じることだと思います。三十後半で自分の仕事のあり方、方針などが自ずと定まってくるものです。そこで社会の評価を得られないなら、後はやはり「下がるべし」なのでしょう。このくらいの年齢で周囲の評価を得ている人は、各職場などにおいて中心的な人物になっていくことでしょう。
 名人に関する部分も魅力的な論を展開しています。声や舞、はたらきなどの技術がある者は「達者」であるが、「上手」というのはまた別で、達者であっても上手ではない者もいるし、達者でないのに「上手」と言われる者もいる。技とは別に「心」とか「正位」とかいうところで決まる「面白き位」があり、さらにその上に「無心の感」という観客がその場では「面白い」とさえ感じられないただ強烈な感動を与える能だという。これも確かにあります。現代風にいえば、「オーラがある」とかいうのでしょうか。仕事の技術的な能力とは別のところで定まる人気、人間的魅力ということでしょう。
 名人の芸には、普通では型破りのものがあり、それも魅力になることがある。しかし初心者が真似をしてはいけない。名人の芸は完璧であるために、わざとそこに型破りなことを入れて緊張感を出し、よい部分を引き立てることができる。初心者の芸はそもそもよくないので、そこに型破りを入れれば、ただ下品になってしまう。うーむなるほどと思わされます。
 カール・リヒターカラヤンの特に宗教曲を聞いていると、そういう感じはちょっと分かる気がします。合唱も結構雑な感じがするし、オケもピタッと合っている感じではないのに、全体から受ける雰囲気は圧倒的な感じがします。『マタイ受難曲』なんかはたくさんCDも出ていて、正確な音程できちんとした演奏のものも本当にたくさんあるのですが、リヒターの演奏から受ける強烈な感じは比較にならないものがあります。
 古典から得られる深さは替えがたいものがあります。外国語はからっきしだめですが、古文が特に苦労せず読めるのは有り難いことだと思います。