深い。

とりかへばや、男と女 (新潮文庫)

とりかへばや、男と女 (新潮文庫)

 河合隼雄とりかえばや物語論です。前半は「とりかえばや物語」をストーリーに沿って解説していきますので、「とりかえばや」を読んだことがない人でも楽しく読めます。河合隼雄自身が言っていますが、「とりかえばや」は国文学界であまり評判のいい作品ではありません。文学史ではたいてい『源氏物語』を最高峰として、それ以降の物語を「源氏模倣作品」と一緒くたに論じ、「とりかえばや」はだんだんダメになっていった物語の極めつけのような扱いだったと思います。
 河合隼雄は「とりかえばや」から、男と女の問題について深く掘り下げていきます。また、物語という形でしか語られない真実について、臨床心理士らしく解説を加えていきます。というのはカウンセリングとは「語る」という行為によってクライアントが自ら治癒していくもののようだからです。
 後半ではユングの「アニマ・アニムス」の概念について専門的な解説をしています。アニマは「内なる男性」アニムスは「内なる女性」のことのようですが、河合隼雄は一人の人間に男・女・アニマ・アニムスの4つがあると考えているようです。そこに自分の前にいる相手の性(もちろん相手も4つを持っている)によって、さまざまに役割分担をしていくといいます。対話は相手との間にだけ起こるのではなく、自分の中でも内なる男女の語らいが、あるいは同性同士の語らいが行われているのです。物語の世界ではそれが独立の男女になって展開していくと指摘しています。とても説得力のある考え方です。「とりかえばや」で男女の性を逆転されて育てられた姉弟が、同性愛的な段階(相手は異性愛として接してくるのだが)を経て本来の性を取り戻して異性愛に落ちついていく過程は確かに誰にでも起こる得る内的成長かもしれません。
 河合隼雄はさらに古今東西の文学作品やオペラを取りあげて自説を補強しつつ、西洋的な男性優位社会の特性と日本的な社会との違いと物語への現れ方を解説していきます。この辺りを読んでいると、改めて河合隼雄の博識に圧倒される思いです。もう少し長生きして一層混沌としてきたこの社会を見て欲しかったです。西洋的な倫理と日本的な美についての論究ももっと知りたいと思います。混沌に触れてめちゃめちゃになってしまうのではなく、「美」という基準によってブレーキがかかるという話は納得できるものがありました。「とりかえばや」で真相を知りたがった中将や帝が知らない方がよいこともあると思いとどまる、あるいは説得される場面、本当の母に会ったと思いながらそれを口に出さない子ども、これらの規制は「美」であると指摘されています。たぶん、現代の日本がしんどい一つの理由もここにあるのかなと思います。「それは美しくないからやめよう」という規制が働かないのです。しかし河合隼雄はそこまでは言っていませんが、そういう価値観が共有されているかどうかは社会の開放度に反比例するのだと思います。
 ユングは男性優位の社会に浸かっていたためか、アニマを強固なものとして考えていたようだと指摘しています。河合隼雄はたましいのレベルでは両性具有的なものがあるのではないかと考えています。プラトンが紹介している、古代の人類は手や足が4本あって前後左右どちらにも動くことができ、強大な力を振るって神に対抗しようとしたので、ふたつに切り裂かれて、男女になった、だから男女は互いの半身を求め合うのであるという話や、『記紀』にある混沌から始まる物語などを引きながら、たましいのレベルでは混沌とした両性具有的な何かがあり、次に生理的な性、そして社会的な性役割ジェンダー)があるのではないかと指摘しています。
 旧約聖書の冒頭がそうであるように、人間は二分法が大好きで、それによって考えていくことで発展してきました。コンピューターが二進法で動いていると知って、河合隼雄は、さもありなんと思ったそうです。しかし時に人生さえ狂わせてしまう強大な力を振るうエロスの引力に苦悩し、傷つくとき、この混沌レベル、たましいのレベルにまで到達して人間は成長するのだと河合隼雄は言います。エロスの神はかつて畏敬されていましたが、時代が下るにしたがってキューピッドのようなかわいらしく小さな存在に描かれ、キューピー人形にまで成り下げされましたが、これは人間が獣性を理性で克服できたとする、あるいはそう思い込むために起きた現象で、エロスの力は弱まってはいないと言います。確かに性にまつわる事件は後を絶ちません。この辺にも近代の限界、二分法、理性の限界を感じます。河合隼雄臨床心理士として現代の最も先端的な病理に向き合ってきたはずです。そのためか、ここに書かれていることの多くは予言的に聞こえますが、ドラッカー風に言えば「すでに起きた未来」を河合隼雄は見ていたのでしょう。
 人間の中にある4つの性、またたましいのレベルへの気づき。混沌や苦悩を切り捨てるのではなく立ち向かうこと、それが人間的な成長、こころの豊かさへ通じる道だというのがよく理解できます。