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祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)

祖父・小金井良精の記 下 (河出文庫)

 星新一の祖父、小金井良精の伝記です。構成として面白いのは、良精自身が書いていた膨大な日記を元に編集してあることです。著者自身が書いていますが、「良精の記」というのは、良精自身が書いた記録とも言えるし、良精の伝記とも言えるわけです。
 話は幕末から始まります。良精は薩長の官軍から朝敵にされてしまった越後、長岡藩の人です。幼い頃に戦火の中を会津まで落ちていきます。良精は昭和19年に亡くなっています。一人の人生に幕末・明治維新から敗戦直前までが記録されているというのは驚きです。激動の時代だったのだと思わされました。佐久間象山河井継之助などが結構近しい存在として小金井家とともに立ち現れてくるのが不思議な感じがします。急に歴史上の人物が身近に感じられました。
 旧朝敵ということで、官吏の道は閉ざされていた良精や周囲の人たちは学問を志しますが、この時代の人たちの勉強ぶりは尋常ではありません。医学を目指した良精はドイツに留学して学びますが、ドイツで認められ、大学で講義までしています。日本に帰って、初めての日本人教授となります。解剖学に一生を捧げ、論文はドイツ語で書き、世界に発表し、その後邦訳して日本に発表するということを死ぬまで続けます。退官制度のなかった東大に退官制度を作り、自ら道を後輩に開きました。給与のほとんど出ない名誉教授になっても大学に通って研究を続け、助手も手伝いもない中で、老齢の身ながら真冬に手ずから頭骨を洗う場面が出てきます。解剖学は基礎医学として、とても大切なものだと考えていましたが、もうかる仕事ではありません。献体された死体を解剖したり、骨を洗ったり、きれいな仕事ではないので、志願者も少なく、世間からも様々な誤解を受けたようです。
 日本で学問ができるようになってきて、日本語で論文を書く学者が増えてくると、今度は外国に論文を発表できる能力が育たないようで、良精は嘆いています。これは今の日本も同じだろうと考えられます。特に科学系の論文は世界語で書かないといけないわけです。
 この本は上下巻に渡る長編で、面白いものですから書いているときりがないのですが、森鴎外の妹、喜美子との結婚や、星一と娘との結婚、星新一の誕生など詳細に描かれています。鴎外が出てくるところは興味深く、文学史には出てこない裏話がうかがえます。たとえば、『舞姫』のモデルとなったといわれる女性が鴎外を追いかけて東京に来てしまった話など。良精が直接交渉してドイツに帰したりしています。また「半日」などに描かれている鴎外の後妻と姑の確執など。先妻の子である於菟のことなど。於菟は良精を父のように慕っていたようです。
 新一の父の一は、実業家で政治にも関わり合った精力的な人ですが、新一が別に伝記を書いているのでこの作品では抑えてあります。それにしても本書には歴史上の人物が次々と出てきて驚くばかりです。いちいち触れていたらきりがないほどです。