いろいろと考えさせられる。

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

 村上春樹の『1Q84』で話題になった、ジョージ・オーウェルの『1984年』です。1949年出版の本作品ですが、権力や暴力、国家と個人といった、近代人に普遍的な問題を扱っているため、実に現在的です。冷戦期に突入する時代に出版されたこともあって、爆発的に売れたそうですが、冷戦体制が崩壊した今でも様々な国や状況に応用できる寓話として読めます。
 過去を作り替えることで現在や未来を支配する政策などは、誇張されて書かれているものの、日本の歴史教科書問題を取り上げても分かるように、民衆操作や、愛国教育につながるエッセンスです。何かがおかしいと思っても、そのおかしさを証明する事実が次々と書き換えられ、むしろ自分がおかしいのではないかと思わされていく過程が、ぞっとするほどリアルに描かれています。
 テレスクリーンに監視され、教育されている『1984年』の世界は、これも戯画化されていることを除けば、テレビからの情報に左右され、監視カメラで街を「守る」という人々の発想と大差ありません。
 言語の変革「新語法」の下りは読んでいて面白いところです。略語の多用によって本来の言葉のもつニュアンスをあいまいにして、意図する目的に沿うように記号化して用いさせるというのは、実際の世界でも意図的にしろ、無意識にしろ、行われているだろうと思います。村上龍が『五分後の世界』で略語を使う危険性に触れています。
 党が人々の性生活まで管理する場面では、ウィンストン・スミスが妻を抱こうとする時に、妻のからだが硬直したようでありながら、党のために子を作らねばならないので、快感なしに性行為をしなければならないと思っている、という描写があります。この妻のからだが硬直している様子などはとても本質的だと思います。この『1984年』の世界は人々のからだが触れ合えない世界であり、硬直した思考と硬直したからだで満ちている世界です。鷲田清一などを参考にすると、現代日本は『1984年』の世界に近づいているようです。
 こうして考えてくると、『1Q84』の現代性が浮かび上がってきます。村上春樹は、現代版『1984年』を書いたのでしょう。そしてそうせざるを得ない危機感が村上春樹にあったということでしょう。ウィンストン・スミスとジューリアは破滅してしまいますが、天吾と青豆は生き残ります。誰かによっていつの間にかルールが変えられてしまった世界にあって、以前の世界を知っているという「危険思想=正気であること」を抱いて生きていく。それはある意味では、井上ひさしによって「戦前」と表現された現代にあって、正気を保ちながら筆を執る覚悟なのかもしれません。