ノスタルジーなのか。

いねむり先生

いねむり先生

 最近また自伝的小説がはやりなのでしょうか。あるいはいろいろな小説を書いてきた人たちが自分を振り返って精算のような作品を書く時期なのでしょうか。いかにも日本の自然主義の系譜につらなりそうな小説です。こういう小説は形としてはあまり好きではないのですが、何だか安心してしまうのも事実です。同じ日本に生まれて住むものとして。
 ここで出てくる「先生」は色川武大阿佐田哲也)のことで、雀聖と呼ばれた博打打ちであり、小説家でもある人物です。ナルコレプシー(眠り病)に罹っている先生と、妻を亡くして以来、アルコール中毒と精神的な不安に悩まされている「サブロー」(伊集院静本人だろう)が旅打ち(各地の競輪場を賭ながら回ることをいうようです)を続けながら、回復していく物語といったところでしょうか。でもストーリーに意味があるのではなく、「先生」の懐の深さや、どうしようもない悲しみや苦しみと、その先生に惹かれていく、これまたどうしようもない悲しみを抱えた人たちのことが丁寧に書かれています。いつも思いますが、伊集院静の文体はあっさりとしていて清潔です。それでいて、情景がちゃんと記憶に残っている。なかなかできないことです。そしていつもなつかしい感じがします。