サルになる?

言葉が足りないとサルになる

言葉が足りないとサルになる

 何でも「ムカツク」「ウザイ」「カワイイ」「ヤバい」で済ましてしまう若者(だけでなく世の中全体)の幼児語現象に警鐘を鳴らす書です。
 本書の前半は幼児語の実例が実にリアルな描写で(筆者が体験談とそれに近いフィクション)、おもしろおかしく語られます。電車の中で読むのは危険です。しかし本当は笑えない現実なんですが。ここではことばが足りなくなるとどういう現実が起こってくるのか、事実起こっているのかを詳しく紹介しています。
 また、メール256文字(無料範囲)以内で話す人が増えているとか。恐ろしいことです。
 中盤から後半にかけてはやや真面目な口調で、ことばが世界を作っていくという本題に入っていきます。ことばが世界を分節化するというのは今や言語学の定説のようですが、ここから一歩踏み込んで、政治の話にまで飛躍します。筆者曰く、ある認識を「ということになっている」という「いまさら言うまでもない前提」にさせることを「政治」と言います、と。とても納得のいく定義です。言語学的に言えば、ことばははじめから虚構的要素を含んでいて、それによって分節化された世界も結局虚構にすぎないということになります。ですから、それを意図的に操作して現実を作り上げていくことが政治だということなのでしょう。問題はその「意図」が誰のために行われているかということに尽きるのでしょう。
 小泉旋風が巻き起こった劇場型政治は、まさにことばをなくしていった大衆が「郵政民営化しなければならない」とだけ言い続けた小泉氏を支持して300議席以上の圧勝を自民党にもたらしたと筆者は分析します。あの選挙で郵政民営化の中身を分かって投票した人はほとんどいません。また、投票した人の多くは無党派層であり、若者です。筆者も指摘するように、小泉氏が推し進めた構造改革はその若者の職を奪い、賃金を下げ、生活を切りつめさせるものだったのにもかかわらずです。小泉氏は大衆に小泉氏の作る「現実」を一時的にせよ、信じさせたことに成功の要因があり、ことばを失うとは、解釈を他者に独占されることだと指摘しています。
 サッカーの例を詳しく挙げながら、自分の意見を自分で考えて自分のことばで語れることがいかに大切であるか、海外の教育では常識になっていることが、いかに日本の教育でおろそかにされているかを語っています。その中で、マスコミの責任を痛烈に批判します。「今日の試合をふりかえってどうでしたか?」という形の決まり切った意味のないインタビューしかしないマスメディアの責任です。サッカーなら、サッカーの内容について聞くべきなのに、「気持ち」を聞こうとし、期待される答えもほとんど決まっている「みなさんのおかげで頑張れました」というところにことばの衰退を見ます。
 また、正岡子規が幼い頃に漢文を意味も分からないままに祖父からたたき込まれた経験がすばらしい短歌を生む素地となったという指摘がありましたが、加藤周一は『日本文学史序説』の中で、漢文素読世代とそれ以後の世代に分けて、漢文素読世代の卓越した言語力と語感について書いています。福沢諭吉がアジアの文化を低くみながら、西洋の文明を日本に紹介できたのは、皮肉にも卓越した漢文の力によると指摘しています。翻訳と日本語の関係については、水村美苗の『日本語が亡びるとき』に詳しいです。
日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本文学史序説〈上〉 (ちくま学芸文庫)

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 最後は北川悠仁作詞の「逢いたい」と忌野清志郎井上陽水作詞「帰れない二人」、野村俊夫作詞「東京だよおっ母さん」の歌詞を比較しながら、「逢いたい」の創作以前の問題を指摘し、それが「ちょーよくない?」と受け入れられている現実に危機感を抱いています。この下りを読みながら、私は『無名抄』の「俊成自讃の事」を思い出してしまいました。よく高校の古典の教科書にも載っていますが、「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」という歌を藤原俊成が自分の代表作だと言ったのに対し、俊恵が弟子である鴨長明に向かって、「身にしみて」なんて言ったのが残念で、自然と「身にしみたのだろうな」と思わせるように歌わないといけない、と言っているというお話です。こういう感覚は日本人には結構当たり前のものとして共有されているものだと思いましたが、筆者に指摘されて、そういえば、最近身も蓋もない表現が巷に満ちあふれているよなと改めて思いました。受容する側がそれでは、理解されるためには発信する方もそうなっていくでしょうから、これは負のスパイラルというか、絶望的な気分になってきます。「ただそらに身にしみけむかしと思わせたるこそ、心にくくも優にもはべれ」なんて言っても、でも俊恵先生、「身にしみて」と言ってくれないと分かりません、とか、殺伐としたむき出しの言葉ばかりで表現されていく世界は単純で危険な世界でしょう。それは「キレル」しかなくなるわけだ。