アブない身体

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

 自分の身体は自分の所有物であるから、自分の自由にしてよいという考えが、かえって人を不自由にするというお話しです。
 身体は自分だけのものではなく、他者との関わりの中で初めて意味をもつ。ダイエットをして美容に気を配り、整形して美しく整え、自分の身体を自分の好きなようにデザインしていくほど、人は自分を醜く、堪えがたく感じる。観念的な身体イメージに実際の身体をはめ込んでいこうとする。まだ足りない、まだ不十分と無限に求めていくうちに過食・拒食にはまり込んでいき、じぶんを見失う。でも他者の欠如したじぶんなどないのだ。ガチガチに固まったじぶんのイメージを保とうと硬直した身体はもろく、崩れやすい。そこには「遊び」がない。夢がない。
 筆者は夢を荒唐無稽なものと捉えているのではありません。むしろ、現実と言われているものが、そんなに確固とした不変のものではなく、夢はじぶんの可能態のようなもので、現実と互いに補完し合う関係にあると考えているようです。たった一つの現実にがちがちになってしまうのではなく、どちらでもあり得るようなじぶんをもっておくゆとりが大切ということでしょう。緊張と弛緩を行ったり来たりする、そのようなあり方の中間にからだがある、じぶんであって、じぶんではない、そういう両義的な身体です。