日本の源流とは

日本的霊性 (岩波文庫)

日本的霊性 (岩波文庫)

 私が日本史で習ったような、仏教の伝来と発展、鎌倉時代に入って庶民化した仏教というような理解を否定し、もともと日本人の持っていた霊性が外部の刺激によって動きだし、法然親鸞に至って花開いたという考えを様々な角度から検証していきます。
 日本的霊性は土に触れることによって明らかになったという。そういう意味で著者は平安時代の貴族文化を霊性の観点からは極めて否定的に見ている。法然は日本的霊性に目覚めた人だが、まだ平安時代を引きずっている。親鸞法然を受けて、さらに地方にて長いこと土着の人々と交わったことで真の霊性に目覚めたという。
 本書では日本的霊性がどのようにして顕れてきたかに半分以上を費やしている。仏教がインドで生まれ、中国で発展したが、日本ではなぜそれがインドや中国とは違った発展をしたのか。筆者は仏教はきっかけに過ぎないとしている。
 後半は法然親鸞を一人格として扱い、その悟りの中身、禅との比較をしながら説明、特に「念仏」について詳しく語っている。最後は妙好人みょうこうにん)である赤尾の道宗と、浅原才一について思い入れ深く語っている。妙好人とは浄土系の信者で特に信仰厚く、徳行の優れた者に与えられる称号のだそうだ。
 解説にも書かれているが、大乗仏教の根本原理として筆者の提唱する「即非の論理」は、論者自身に宗教的体験がないと説得力をもたない。即非に論理とは、一般的な形式にすれば、「甲は甲であるというのは、甲は甲でない、故に甲である」という形式に直せる。私たちが普通に考える形式は「甲は甲であるというのは、甲は乙でない、故に甲である」で、これは理解できる。即非の論理は一般常識では理解できない。妙好人のところを読むと、その具体例が詳しく語られているが、これを読んで「理解」するのは不可能だと想う。自分が同じ体験をするならわかるのかもしれない。
 西洋的な二項対立の考え方、主観・客観の論理は日常生活では現在も常識とされているが、その思想も限界に達しつつあるように思える。西洋と東洋の壁はなくなりつつある。日本的霊性が到達している「悟り」のような部分に西洋的言語化によって近づいていくことは無駄ではないと思う。最終的には言語化できないとは思うけれど。