眠たい

ハイデガー―すべてのものに贈られること:存在論 (入門・哲学者シリーズ)

ハイデガー―すべてのものに贈られること:存在論 (入門・哲学者シリーズ)

 雨が降ると眠たくて読書が進みません。雨の日は読書くらいしかすることがないんだけど。
 どういう問いを立てるかが良質な思考を行うためには重要だと分かります。一生をかけてその問いに取り組む人が哲学者と言えるのでしょう。また、世の中の常識をあえて疑ってみたり、角度を変えてみたりする、それには柔軟な思考力とある種の反骨精神みたいなものがないとできないことだと思います。
 ハイデガーは「存在」について考えた人です。存在の性質や、条件については考えても、「存在する」とはどういう意味か考えられたことがない。「存在するとはどういうことか?」がハイデガーの問いです。ハイデガーデカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」を批判することから出発したそうです。デカルトの考え方で行くと、世界は「わたし」が認識するから存在する。わたしの認識(主観)が世界に先だって存在し、世界はわたしに認識される客観的存在である。この「主観/客観」の思考は、すべての事物をわたしが常に認識しながら過ごしているという例外的な状況を普遍化したもので、ハイデガーによれば、普段はそのような事物は意識されていない。ハイデガーは世界を「道具連関」という考えで表現した。つまりさまざまに絡み合った目的と手段の連関として世界は構成され、そこから抜け出ることはできない。世界内存在として、現実に存在するわたし、それを「現存在」という。その時に、道具を使うわたしは道具を意識しない、そういう意味で世界は「わたし」が世界外から目の前に事物を眺めるようには存在しない。デカルト的発想からは人間中心主義の考えが生まれ、科学万能主義と相まって地球環境の恣意的な変革や消費をよしとする、人間に世界が奉仕する考えが生まれてきたという。なるほどと思わせられる。
 またハイデガーは存在の意味について考える中で、死についてもそれまでの哲学史になかった考えを打ち出した。それまでの思想では死は不滅の霊魂との関連でしか語られてこなかった。現存在のかけがえのなさは、死によってしか得られない。死はその存在にしか行うことができないし、誰も代わることができない。ひとは死によって人生を完結し、完成する。しかしその瞬間、その存在が失われてしまう。その死=無にいたって完成する現存在はいつか死ぬものとして死に直面する現在に生きる時に本来のあり方を実現できる。しかし通常、人は死をひとごととして考え、日々死に直面しているわけではない。日々の暮らしに没頭し、本来的なあり方を失っている状態である。
 キルケゴールはそのような存在の意味の本来的なあり方を最終的に神に求め、「宗教的実存」という考えを提出した。神と一対一で向き合い、徹底的に一人であろうとする、孤高の単独者を目指す。
 ハイデガーは過去において存在は気がついたら存在しており、現在は本来のあり方ではなく、未来には死によって完成した瞬間に存在を失うという。そういう三つの「無」に取り囲まれた現存在は不安を覚える。その不安のなかに「ある」ということが現存在を表現する。
 サルトルハイデガーに影響を受け、「実存主義」を唱えたが、サルトルのそれは人間中心主義の考えであった。ハイデガーはすべての存在に関して存在の意味を問うために、手始めに現存在としてのひとを選んだに過ぎない。しかし現存在からの眼差しを捨てない限り、人間中心主義に陥ることを免れないことを知ったハイデガーは「芸術=美」に目を向ける。芸術から浮かび上がることがらは、世界は隠されていることがあるために明らかになるという逆説的なことがらだ。パルテノン神殿は美しく建っているが、その下を支える大地の全てが見えるわけではない。神殿の中には神体があるはずだが、神体は隠されている故に神体なのである。また絵画の中の世界を絵画を見る人は感じることができるが、その絵画に描かれた人々にとって与えられた歴史や運命や決断を見ることはできない。隠されていることと明らかになっていることが絡み合うところに真理が立ち上がってくるという。
 ハイデガーは視覚的な比喩を用いて語ること自体にデカルト的な人間中心主義を見てとり、聴覚的な比喩で、存在に聴き従うといった。わたしたちに存在を贈り、わたしたちを包み、支えているものの存在を感じて、それに聞く、それが人間中心主義とは違う、本当の人間の尊厳なのだという。
 筆者も言うように、ハイデガーのたどりついた思想はまるで仏教修行のようだ。しかしそういう言語化できないことをあえて思考するのがこれからの哲学なのだろう。哲学がそこまで来た。こうなってくると、東洋思想も西洋思想もない。どちらが優れているとか劣っているとかも関係ない。ひとを特権化せず、すべての存在の意味を問う、それがこれからも思考されていくだろう。