日本が亡びる?
- 作者: 水村美苗
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/11/05
- メディア: 単行本
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日本では明治維新の時代に「国語」が生まれ、国民文学も生まれた。その当時の世界語であった英語・フランス語・ドイツ語の翻訳を通して。筆者は日本が植民地にならなかった幸運と大陸から切り離されている幸運を強調する。そもそも中国の漢字がアジア圏の世界語であった時、日本だけは中国語を中途半端な形で受け入れた。それは海を隔てていたからだ。他の国、たとえばベトナムなどは漢字文化をそのまま受け入れた。日本はそれに独自の改良を加え、ひらがなやかたかなを生んだ。近代に入って、かつての漢字文化圏の多くは欧米の植民地となり、欧米の言葉をそのまま受け入れ、漢字を捨てた。日本は漢字を捨てず、欧米の言葉をそのまま受け入れることもせず、「国語」を生んだ。日本の識字率の高さ、出版資本主義の成立、植民地化を免れたことなど、様々な偶然が重なって日本の国語の祝祭の時代は訪れた。しかし、英語が世界語として君臨し、インターネットが普及した今、英語で書かれない言葉は世界に受け入れられない。学問の世界はすでにそうなっている。筆者の危惧は具体的で緊急である。
筆者の提案するのは、日本語を捨てて英語を採用すべきだということではない。そういう動きは過去に二度あった。明治維新の時代と敗戦の時代だ。日本はフランス語を採用すべきだという意見があった。少なくとも漢字を捨てようという考えはある程度進んだ。漢字の新字体や、字数の制限である。つまり当用漢字であるが、これが漢字を撤廃するまでの間、「当面使用する漢字」の意味だというのは知らなかった。当用漢字は現在の常用漢字に当たる。また、旧かなづかいが新かなづかいに改められた。筆者は福田恆存を引いて新かなの無理を説明する。また、外来語を翻訳せずにカタカナ語で流通させる危険を説く。書き言葉と話し言葉は違う、そこを混同していくことは書き言葉としての国語が亡びていくことだ。国語は国民が話している言葉ではなく、国民が思想や芸術や学問を語る重荷を負わせるに足る言葉として生まれた言葉だった。筆者は話し言葉で書かれた小説が氾濫する現代を国語滅亡の危機と見ている。それは現地語文学でしかない。筆者が考えるのはエリートの英語教育である。最先端で英語で渡り合える人材の育成である。そしてその一方で国民文学の普及である。学校教育で旧かなの本文を読めるようにする。
英語の世紀の中で、日本人は日本人にしか通用しない言葉を扱い、世界語を読むだけなら、文化はすべて外来文化となり、自国から世界に文化を発信することはできなくなる。日本語で書かれたものは英語に翻訳されなければ世界で意味を為さない。一方で筆者は小説家であるから、翻訳不可能性に文学の神髄を見ており、国民文学としての日本文学を日本語を操る日本人が読み取ることの意味を重視している。