基本から

ニーチェ―すべてを思い切るために:力への意志 (入門・哲学者シリーズ 1)

ニーチェ―すべてを思い切るために:力への意志 (入門・哲学者シリーズ 1)

 「中学生にも分かる」とあるので、読んでみました。カントの思想について確かに分かりやすく解説してくれています。ニーチェは高校の倫理の時間に習った覚えがありますが、「神は死んだ」という衝撃的なひと言しか覚えていません。つくづく今まで何を学んで来たのかと情けなくなりますが、仕方ありません。「中学生にも分かる」入門書から始めましょう。
 ニーチェがしたことは、プラトンの「イデア」、キリスト教の「神」、ロックやカントの「自我」、ヒュームやスミスの「同情(共感)」を否定したことだそうです。ちなみにここに出てくる人物も、私は先ほどの高校倫理のレベルから一歩も出ていないのですが、それでも懇切丁寧に語ってくれる本書では理解可能です。ニーチェは関係性の産物である「自己」を基本とします。絶対的・根本的なものは何もないという立場です。人間の体も体内の様々な臓器や細胞のような部分が互いに自己を肥大化させようとして生きる結果として人間が生きているという考えで、人間という特別な存在があるわけではないとします。ですから人間の「意志」というものが存在するのではなく、結果として何らかの選択をさせられているに過ぎないということです。人間を形づくっている構成物それぞれの「力への意志」があるだけで、人間が主体的に(自我を持って)「これが正しいから」という価値判断をしているわけではないというのです。この考え方は「複雑系」という現代の考え方に引き継がれていて、それぞれが個々に存在していることが、結果的に大きな秩序構造を形づくることを言うようです。はじめからこういう大きな秩序を形づくろうという意図なしに偶然によって作られてしまう。人間というものもそういうものに過ぎないと。
 善/悪・自己/他者・西洋/東洋・男/女・精神/物質などの西洋の伝統的な二項対立も無意味な虚構として見せたのもニーチェだという。ニーチェ以前には前者は後者に先だって生まれ、後者に優越すると考えられてきました。ところが、ニーチェは後者の存在が前者の存在条件であり、二項対立は成立しないと考えました。たとえば、善という概念は、力なき者(敗者)が力在る者(勝者)に対して抱く嫉妬やねたみ(ルサンチィマン)を、力在る者を「悪」、力なき自分たちは「善」と規定することで自我の崩壊を防ぐ仕掛けであり、あらゆる道徳はそうした弱者の捏造した価値であると考えました。またキリストの神ももともとはローマ帝国に迫害されていた奴隷たちの希望としてあった、奴隷道徳であると。ゆえに、ニーチェの看破したところによれば、「神は死んだ」のであり、あらゆる道徳や価値は幻想に過ぎないとなります。その道徳を人間が信じてしまうのは、パースペクティヴィズム(眺望固定病)にとらわれているからだとします。人間によって都合の良い価値を「本質」へと誤って投影されたものであるとします。「自我」でさえも、そうした誤った投影であると。「私」という存在が自分の意志で判断し、行動すると見えている現象も誤りで、上記の「力への意志」がそうさせているだけであり、それは自然に生ずるものであると。
 そういうわけで、人生に目指すべき目的や希望や快楽というものはなく、時間は(キリスト教のいうように)直線ではなく、永遠に同じことが繰り返される、永遠回帰であるとニーチェは考えました。無目的な苦行を永遠に続けるのが人生であると悟り、全人格を挙げて人生に進んでいく人をニーチェは「超人」と呼んでいます。超人は希望を持つことなく、無を求めることもない、もはや人類ではない存在だそうです。
 以上、何となく理解できたことです。本自体は平易な言葉で書かれていて分かりやすいです。自分が説明できない部分はそれにも関わらず、理解が到達していないからでしょう。これを入門書としてニーチェの自著にも挑戦して行こうと思います。
 ニーチェは1900年に亡くなっていますが、現代の私たちの方が当時よりも受け入れやすいような気がします。ところでニーチェは『老子』や『荘子』なんかを読んだことがあったのか知りたいです。