ふしぎな図書館 (講談社文庫)

ふしぎな図書館 (講談社文庫)

 「大人のためのファンタジー」と紹介された村上春樹の小編です。いかにもハルキ的世界です。ちょっと僕なりに解釈をしてみたいと思います。
 登場人物は、まず「ぼく」。年齢は分かりませんが、学校に通っているところからすると、小〜高校生くらいかと思います。小学生のようでもありますが、妙な落ち着きと、オスマントルコの税収に興味を持っているところから、高校生くらいかとも思えます。次に、「図書館の受付嬢」。はじめにちょっと出てくるだけです。あとは「母」。作品中に登場はしませんが、「ぼく」にかなりちゃんとしたしつけをしているようです。「ぼく」が図書館から帰って一週間ほどして亡くなってしまう。この作品の重要な人物と思われます。「口のきけない美少女」羊男に見えたり見えなかったりする、謎の人物です。それぞれの人にそれぞれの世界があるという「ぼく」にとって重要な示唆をしています。この少女は声帯をつぶされたとありますが、声が出せない子というと、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「音抜き」された女の子を連想してしまいます。そこでも異界のような地下世界で祖父の怪しげな実験によって計算士である「僕」はだまされて、脳に細工をされてしまうのでした。このお話とも重なるところが多いです。図書館を脱出する場面では「ぼく」の飼っていた「むくどり」になっており、巨大化して「黒い大きな犬」と「老人」を倒してしまいます。「むくどり」は図書館から帰ると消えており、鳥かごが開いています。「老人」は本を借りに来た「ぼく」をだまして牢に入れ、「ぼく」の知識を吸い込んだ脳を吸ってしまうつもりです。「羊男」は村上春樹が好きな人にとってはおなじみのキャラクターです。初出は『羊をめぐる冒険』の「いるかホテル」のエレベーターが異界につながってしまう場面です。続編の『ダンスダンスダンス』にも出ていました。彼は元は人間で、まぶたを切り取られて砂漠に放り出され、予言の力を得たようです。この作品では老人の暴力におびえて、反抗のできない、ドーナツを上手に焼くやさしい少年のような役柄です。
 一見すると荒唐無稽な話のようですが、おそらく鍵は物語のはじめに何度も出てくる、見えない母に縛られている「ぼく」の姿です。そして黒い大きな犬にかまれた時から、「ぼく」の帰りが遅いと母が「おかしく」なるという話です。「ぼく」は相手に言われたことに逆らうことができません。しかし「なんだって、ぼくはこう、自分がほんとうに思っているのとはちがうことを言ったり、やったりしてしまうんだろう?」という疑問も抱いています。羊男は老人に暴力的に支配されていて、服従を強いられています。そんな羊男に「ぼく」は同情しますが、恐らく異界である図書館の地下迷宮での老人と羊男の関係は、地上での母と「ぼく」の関係であり、黒い大きな犬というのは「ぼく」が心に抱いている支配される恐怖そのものを具現化したものと思われます。声を出せなくされている少女も実は「ぼく」のもう一つの姿で、「羊男さんの世界に私が存在しないからといって、私そのものが存在しないってことにはならないはずよ」という言葉から、彼女は「ぼく」の自由な意志、支配されない心を表しているようです。今は羊男的世界にいる「ぼく」には声が出せなくなっているけれど、自由な意志が存在するとうことでしょう。図書館は『海辺のカフカ』にも出てきますが、知識の宝庫であり、新しい世界を開いてくれる場所でもあるようです。知識が「ぼく」を自由にしていく。だから知識を得た脳を「老人=母」は吸い取ってしまい、「ぼく」を無知な状態において、支配しようとしているのです。「ぼく」は読書の中で、自由に他の人物に変身し、どこへでも行く翼を手にしました。地上に戻る前、ついに「老人=母」と「恐怖=黒い大きな犬」と対決し、「少女=自由意志=むくどり」の力により地上に戻ります。地上に戻ると「母の横顔は、いつもよりほんの少しだけ影がこくなっているみたいに見えた」。その母は一週間後くらいに亡くなってしまう。原因不明の病気で。からっぽのとりかごは、「ぼく」の自由の象徴でしょう。しかしラストは少しさびしげです。村上春樹の作品は「喪失感」がキーワードとして取り上げられますが、ここでもそうした喪失感を表しているのでしょうか。自分を束縛するものを倒して得た自由とは、同時に孤独でもあるわけです。支配されることの快適さ、しかしその代償に収奪を覚悟しなければならない。「ぼく」が「オスマントルコ帝国の税金のあつめ方」について調べるのにも暗喩があるのかもしれません。あらゆる支配から脱した僕は、限りなく孤独です。『海辺のカフカ』では父殺しがテーマの一つになっていましたが、この作品では父ははじめから不在です。そして支配する母親が「殺されて」いる。最後にドーナツですが、この中央に穴が開いているドーナツには「ぼく=羊男」の欠落した自己主張が表されているか、それとも結末の「ぼく」の心の空洞を表しているか、ちょっとまとまりません。