生きた言葉

もう、ひとりにさせない

もう、ひとりにさせない

 理論のよく整った論文や、ちょっといいことを書いたエッセイなどにも心を動かされることはありますが、この本に書かれていることは、突きささってくる言葉が並んでいます。これが現実に根ざした言葉であり、私自身の現実そのものだからだと思います。
 ホームレスを襲撃して殺してしまった少年たちについての「(少年たちには)ホームレスを襲っても、大人社会は問題にしない、という彼らなりの読みが働いている。当然そこには、そう思わせている大人社会の現実がある」という指摘には、大人社会の心の闇を突く真実が含まれています。大人ではなく子どもがそれを指摘することに、子ども自身に見えている社会への絶望が浮かび上がります。著者はそこに、日本軍の南京大虐殺や、ナチスユダヤ人虐殺などと同じ、「異人」の排除の論理を見ます。社会のために異人=汚物を排除する、本来犯罪行為である殺人が、誇りに転化してしまうと分析します。
 リーマンショック以来、若者のホームレスが急増しているそうです。「死にたい」と言う若者に、著者は「君は自信家だ」と語ります。「『自分は生きていていいか。俺なんか死んだほうがいい』『家に帰ったらどうだ。親は迷惑がるに違いない』自分で問い、自分で答える。自分自身の出した答えを鵜呑みにする。自問自答のただ中で、自分の言葉だけを聞き、自分の出した結論を信頼する。自分を信じているゆえに、彼らは『自信家』なのだ。『少しは自信をなくしなさい。赤の他人の言うことに耳を傾けなさい。』とくり返し語りかける」と。この考え方は斬新です。自ら命を絶つ人は、自信家なのだ。弱いから死ぬのではない、弱いことを認めたくないから、死ぬのだ。弱いことを他の人に知られたくないから死ぬのだ。
 自己責任論社会についての言。若者が「助けて」と言えない、なぜか。困窮状態になったのも、すべて自己責任だと若者自身が社会全体から思わされているからだ。しかし、本当の自己責任は、自己責任を取れる環境を整備して初めて生まれてくる。住むところがなければ、ハローワークに行っても仕事を紹介してもらえない。住居を提供して、当面の食事を提供して、清潔になってもらって、初めて職探しができる。そこで職探しをしないのなら、そこで初めて自己責任だという言い方が可能になる。著者自身は「自己責任を果たせるための支援」と言っています。筆者は国家が「自己責任だ」とは絶対に言ってはいけないとも言っています。そもそも国家は社会(赤の他人が関わるしくみ)の代表的存在であるから、その国家が自己責任と言ってしまっては、自ら存在意義を否定していると。明快です。
 「きずな」には「きず」が含まれているというお話しは厳しいけれど、それが真実なのだと思います。タイガーマスク現象をよいこととしながらも、「匿名性」について、他者との直接的な関わりを避ける姿を見ています。困っている人に何かしたいという思いをもっている人は多い。けれども実際に困っている人に関われば、こちらも傷つかずには済まない。ランドセルを贈った子どもに「こんなもの、いらねえ」と蹴り返されたらどうするか、筆者は「対人支援というのはそこから始まる」と書いています。「きずな」には「きず」が含まれている。何年にも渡って関わって、いつも「いらん」と拒否されながら、相手が心を開くのを待ち続ける、筆者の現実体験から生まれた鋭い洞察だと思います。
「自己責任社会は、自分たちの『安心・安全』を最優先することで、リスクを回避した。そのために『自己責任』という言葉を巧妙に用い、他者との関わりを回避し続けた。そして、私たちは安全になったが、だれかのために傷つくことをしなくなり、そして無縁化した」
「傷つくことなしにだれかと出会い、絆を結ぶことはできない。出会ったら『出会った責任』が発生する。だれかが自分のために傷ついてくれる時、私たちは自分は生きていてよいのだと確認する。同様に、自分が傷つくことによってだれかがいやされるなら、自分が生きる意味を見いだせる。」深い言葉です。全部引用したいくらいの本です。たくさんの人に読んで欲しいです。