考えろ、わたし。

人間的自由の条件
 ヘーゲル思想より「自由の相互承認」というキーワードを取り出し、ヘーゲル思想の現代的意味について読み解いた本です。本書は大きく三部に分かれていて、第一章「資本主義・国家・倫理 『トランスクリティーク』のアポリア」では柄谷行人のカント・ヘーゲル批判の妥当性について検証する。第二章「絶対知と欲望 近代精神の本質」では、ヘーゲル批判における誤解を丁寧に読み解いていき、近代精神のあり方をヘーゲル以前にまで立ち返って検討している。ヘーゲル批判の多くは、近代国家が成立して、国家による国民への抑圧がはっきりしてきたり、資本主義経済が格差を再生産するようになったりした「現実」からヘーゲル思想を批判しており、現実に対してはリアリティがあったが、ヘーゲル思想の哲学的批判になりえていないことを指摘する。第三章「人間的自由の条件」は題名にもなっている通り、本書の中核をなす内容であり、第一章第二章と重なる点も多い。ここでは具体的にマルクスフーコーアレントなどヘーゲル批判から生まれた様々な思想について具体的に論じつつ、しかしそれらが本質的にヘーゲル批判となり得ていない部分と、マルクスポストモダン思想の功績と弱点について詳述する。
 自分自身の知識が不足しているので、わかったことだけ記しておくことにする。
 人間の自由は所有から生まれ、資本主義による富の蓄積が人間的自由を可能にしたのであって、資本主義経済を否定することで自由が得られるというのは転倒した理解である。資本主義が成立し、富の偏在が生まれ、格差を再生産するように見えるのはあくまで表象であって、資本主義という思想が自由を圧迫しているのではない。所有以前の人間は共同体の思想に没個人的に所属しているのであって、そこには本質的な意味での自由はなかった。したがって、資本主義経済を打倒すれば自由が得られるというのは誤りである。
 国家が生まれたのは、個々人の欲望の制限のない拡大を調整するために要請されたからであり、国家をなくせば自由が得られるというのはやはり転倒した下論である。国家が国民を抑圧している状況下でそういった「国家幻想論」や「見えない権力論」は大変説得力があるが、本質的な国家批判とは言えない。国家のような調整機能がなければ、人間は普遍的な闘争状態に陥るだけであり、自由は生まれようがない。また、暴力を背景としない権力は存在せず、近代の国民国家が暴力的な圧政を敷いたからといって、国家そのものの消滅が人間的自由の実現につながるというのは誤りである。
 ヘーゲルが考えた国家の最終形態は自由の相互承認に基づく、純粋ルールゲームとしての一般福祉を目標とする社会であった。もはや「正しさ」の根拠として神などの形而上的な存在を持ち出すことはできない。社会の成員の多様な生き方と目的を自由に追求しつつ、それらがお互いに承認しあえることだけが正しさの根拠となりうる。人類の成長にしたがって最終的には一般福祉を追求することが目的となる。
 本書ではヘーゲルの限界、今や説得力を持たない部分について十分自覚的であり、最終章には「『自由の相互承認』の社会学的転移」という一節を設けて、現在の私たちの現実に適合するようにするためにはどうするかについて示唆的な記述を行っている。少なくとも、ポストモダン思想が提出するような考えでは、現在の権威の相対化には一役買っても、将来への展望が開けない。どんなに理想論的に聞こえようとも「自由の相互承認」を越えでるような思想が、つまりヘーゲル以前に思い描かれた近代国家概念を越えでるような思想が、提出されていない以上、その実現のために何ができるのかを考えていくほかはない。