東洋思想

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

 本書は「意識と本質」「本質直感」「禅における言語的意味の問題」「対話と非対話」の四つから成っている。本の題名にもなっている「意識と本質」は12章に分かれていて、全体の3/4を占める。
 著者自身が「後記」で述べている通り、本書は東洋思想を体系的に述べる一つの試みである。西洋の哲学は初めから体系的に述べることを意識して作られているのだろう。しかし東洋思想はそのようにはできていない。著者はそれを西洋思想的な概念を使いながら分かりやすく説明している。
 言葉で指示されるものが言葉によって拘束されている表層意識から、言葉に拘束されない深層意識に、たとえば座禅によって沈潜し、言葉によって分節される前のぐにゃぐにゃした本質(絶対無分節者)に到達。意味が無意味になり、有が無になる瞬間が訪れる。さらにそこから再びモノが物として実在しているように見える世界に帰ってくる。すると無が有になるが、そのモノは以前の物とは違い、何にでもなる可能性のあるモノである。その新しい境地では、「私」が「山」を見ることは、「山」が「私」を見ることと同義であり、鏡に映る自分を見ているようなものだという。
 禅の世界で語られる事柄が、イスラームの哲学や、孔子における正名論、老荘思想、『楚辞』などのシャーマニズム、易の陰陽、ユダヤのカバリスト、サンスクリットの思想にも通じるところがあることを次々と明らかにしていく。いったい著者の思想の広がりと深さはどうなっているのかと思わせられるくらい縦横無尽です。西洋とか東洋とか区分はあるようでない。著者自身がそういった思想の混在した一つの巨大な思想だという感じがする。
 カントがまとめたような理性的な哲学の明晰さは面白いけれど、カントが人間の関知できるのはここからここまでと線を引いたところを逸脱しているのが東洋思想なのかもしれない。ニーチェニヒリズムのような悲観的な否定哲学でもなく、有が無であり、無が有であるような矛盾を抱えたまま実在する世界を描いている、思想の混沌としているようでその思想なりの秩序を持っている世界が東洋なのだろうか。勉強が足りなくて理解の届かないところばかりだけれど、西洋哲学もどんどん東洋的思考に近づいている気がする。今は結構思想的には面白い時代なのかもしれない。