平易にして深遠

修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)

 本書は新書の形式ながら、一気書きの本(筆者曰わく「ラーメン一丁上がり」)ではなく、さまざまな場面で書いた想定読者も文体も異なる本(筆者曰わく「幕の内弁当」)です。内容に重複も多く、それがかえって理解を深めるのに役立っています。単なる知識本なら重複は冗長なだけですが、このような種類の本はむしろこんな風にくり返しいろいろな角度から説明してもらう方がよくわかります。この読書体験がまさに筆者の言う「修行」と同質なのだと読者は気づくことでしょう。
 筆者の修行の説明がわかりやすい。言語化しがたいものをこうも簡潔に言語化するのはそうとうな力がいると思います。曰わく「修行の意味は、事後的・回顧的にしかわからない」。筆者はこれに対立する考えとして「努力とは一種の商取引である」を挙げています。それをさらに平易に言いかえて、「いいから黙って言われた通りのことをしなさい」と「その実用性と価値についてあらかじめ一覧的に開示すること」と表現しています。後者の考えについて筆者の『下流志向』で詳しく書かれています。幼い頃から「消費者」としての自己を確立してしまう現代の人は、自分が払う(努力でもお金でも)に値する価値をもっている商品(能力でもモノでも)には反応するが、そうでないと判断したものには反応しないというものです。しかし筆者は言います。もしその判断ができるのならば、消費者は何を買うのかが完全に分かっていなければならない。つまり「この努力をしたらこの結果が付く」ということがあらかじめ分かっていないといけない。けれども学びというのは未知のものを身につけていくことであり、学ぶ前と学んだ後とではその人は別人になっているのであり、消費者としての論理とは基本的にかみ合わない。『下流志向』はだいたいこういう話だったと思います。『修行論』も基本的な枠組みはこの、「学ぶ前と学んだ後とではその人は別人になっている」ということを様々な形で展開しています。だから「修行の意味は、事後的・回顧的にしかわからない」のです。何でも数値化して分かろうとするあり方に筆者は批判的です。それを筆者は「『身体を鍛える』という表現への違和感」と書いています。数値で計れる能力というのは断片的なものです。身体の機能が上がるということはどこか一部分の能力が上がるということとは違います。むしろどこか一部だけ能力が上がってしまえば(たとえば上腕二頭筋を片腕だけひたすら筋トレして鍛えるとか)、全体のバランスが崩れてかえって身体能力は下がると言うことがあると思います。数値化できない能力、身体の使い方などは言葉で説明できない部分を含みます。筆者はそれを住み込みの弟子の話で説明しています。通いの弟子よりも住み込みの弟子の方が上達する。それはなぜか。道場での稽古は同じ時間しかしていない。住み込みの弟子がしているのは師匠の身の回りの世話です。師の近くにいて師の呼吸と弟子の呼吸が合ってくる。師の空腹、師の便意などがわかって、師が命じる前に動けるようになる。そうして師と一体化していく過程で飛躍的に芸が上達する。これは数値では計れないし、言葉でも説明できない。この同期する大切さを筆者はくり返し強調しています。相手が剣を打ちこむのを見てから動いたのでは遅い。剣がそこに打ちこまれるのが分かって、そこしかないという場所にすでに移動している。そういう境地に達することができるというのです。それを筆者は「いるべき時に、いるべきところにいて、なすべきことをなす」と表現しています。私は理屈として理解しようとしているので、本当に分かっているとはいえないのですが、筆者曰わく、今分かっていることを断定的に言わなくてはならないのです。次の段階に行くまでは今の私の理解がすべてであり、次の段階で自分がどういう理解をしているかは予めわからないからです。そういうわけで、筆者は自分の今の理解も必ず「間違っている」と言っています。もっと上の段階の理解があるはずだからです。でもそうであるからといって何も言わないのは無責任であり、分かっていることを断定的に言わなくてはない。本書はくり返し読み、理解を深めたい本です。