修養会

[日記]修養会の朝の礼拝
マタイ16:13〜23
 わたしは誰か?という問いを一人で考えていてもついに答えはみつかりません。にもかかわらず、多くの場合人は「自分はいったい何者か」という問いに取りつかれる時期があるようです。
 私は中学生くらいにこの問いに取りつかれ、高校から大学くらいまでにピークを迎え、現在でも残り火がくすぶっているような有様です。いわゆる思春期と呼ばれる時期なのかもしれませんが、生きている限りはこれからもちょくちょく考えざるを得ないようです。今では若い頃のように劣等感と結びついてむやみに自分を卑下して「どうせ自分など」といった過小評価をすることはありませんが、人生もたぶん折り返し地点あたりと思われるので、ここまで生きてきてしまった取り返しのつかなさと、これからの残り時間を考えて、自分はどうなるだろうかという気持ちがします。
 自分は何者かという問いの答えは、現在は、自分は自分にしかなれないというところに到達しました。自分の可能性を十分に広げていくことしかできない。他の人にはなれない。当たり前のことですが、このことが痛切にわかるようになるにはそれだけの時間が必要だったようです。
 高校を卒業して、大学進学をやめて、進学か就職か悩みながら、新聞配達をしながら予備校に通った一年間は、思えば、自分とは何かという問いが一段と深まった時でした。一番強烈に感じたのは、制服の威力です。制服を着ているだけで、中学生・高校生として扱ってもらえ、社会から無限の期待を寄せられ、多少のことは許されていたのだということを、制服を脱ぐことで実感しました。それと当時に、新聞配達のようないわゆる肉体労働に従事する人間がいかに冷たく扱われるものであるかも実感しました。社会には明らかに階層があり、自由と平等はまやかしだと思いました。
 一年後大学に進学し、学生になってみると、世の中はまた私を将来のある有為な人材として扱っているような気がしました。就職して教師という職業に就いた時、20才前半の若造が、周囲から「先生」と呼ばれるようになりました。高校生の私、新聞配達員だった私、学生の私、教師の私、私自身はそんなに変わった気はしませんが、社会的な扱いはだいぶ変わりました。先生と呼ばれる自分に得意になれるほど、純粋でも単純でもない私は、中学生の頃に自分とは何かと考えていた頃とそう変わってはいないように思います。
 ピーター・ドラッカーという人はその著書の中で、少年の時に「あなたは何によって世の中から覚えられたいか」という質問を教会の牧師からされて、強烈な印象を受けたと書いています。私は35歳くらいの時にこの言葉を読んで、もっと幼い時に私にこんな言葉をかけてくれる人がいればよかったのにと思いました。ちょっと日本ではこういうことをいう人は少ない気もしますけれど。
 私は「自分は何者か」と自分の中を見つめましたが、中には何もありません。気になるのはむしろ他人からどう思われるかばかりです。ドラッカーが受けた質問は、言い換えると「あなたは他人にとって何者になりたいか」という問いだと思います。「あなたは何者であるか」は静止した問いです。どこにもいけない問いです。それに対して、何者になりたいかという問いには動きがあります。方向性があります。しかも「他人にとって」です。しかしこれは他人にとって役に立つ、便利な人間になるというような、あるいは他人に合わせるというような自分を喪失してしまう意味での「他人にとって」ではなく、他者との関わりの中で、この世界をあなたはどのように創っていくのかという大きな問いです。
 先行きの見えない不透明な時代とか、息苦しい世の中などという言葉からは、「時代」とか「世の中」という実態がそこにあり、自分をそこにはめ込んでいくしかないようなイメージが浮かんできますが、「世の中」などという実態はありません。間違いなく自分も世の中を創っている一部であり、世の中を動かしていっている一員です。
 さて、今日の聖書です。イエスは弟子たちに質問します。人々は私を何と言っているかと。これは先ほどの私のことでいうと、制服を着ている時に人々は私を何と言っていたか、新聞配達員である時には何と言っていたかという問いです。人の人に対する評価は流動的です。絶対的なものではありません。イエスは続けて、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と聞きます。これは「あなたにとって私は何者か」という問いです。
 ペテロはイエスをメシアだと答え、イエスはそれを現したのは、人間ではなく神だと言います。神は普遍的な存在ですから、こちら側のあり方で変化したりはしません。イエスをメシアだと言った時のペトロは、聖霊に満たされて神の言葉を語っているのです。人と神との関係で話をしているのです。つまり絶対的なのです。このような問いにいつでもこのように答えられる人間はいません。ペトロも例外ではありません。ペテロはイエスが逮捕された時に、イエスのことを知らないと言って裏切りました。他の人たちがイエスを罪人として扱っているからです。他の人がどう扱っているかに従ったのです。ペテロがそういう弱さをもった普通の人間であることは、直後に語られています。イエスが殺されて三日目に甦るというはなしを弟子たちに話している時、ペテロがそんなことがあってはなりませんといさめ、イエスから「サタン、引き下がれ」と叱られます。つい先ほど、イエスからあなたの上にわたしの教会を建てると言われ、天国の鍵を預けると言われたペトロが、神のことを思わず、人間のことを思っていると非難されます。神と一対一で向き合って、他の人々が何と言おうと、神を神だと言うことは大変難しいのです。
 始めの問いに戻りますが、私は何者かという問いには、不特定多数の人からどう思われているかは答えになりません。顔の見える信頼できる他者にとって、自分はどうなれるのかを考え続けることで、答えは与えられるのです。聖書ではそういう他者を「友」と言っています。しかも一度答えが与えられれば安心というのではなく、常に自分が友にふさわしいあり方ができているかを検証する必要があります。それはくり返しになりますが、相手に都合の良い存在になることではありません。イエス自身がそれを示してくれています。ペテロが道を外れた時、イエスにとっては「サタン、引き下がれ」とペテロを厳しく叱ることが、友としてもっともふさわしいあり方だったのです。
ペトロはイエスが言った、「人の子は殺されて三日目によみがえる」という言葉の意味がわかりませんでした。この瞬間、イエスはペトロにとって、自分の考えるイエスの姿から外れてしまったのです。だから「そんなことは言ってはいけない」とイエスをたしなめようとします。私にとって、ここちよい、私にとって理解できる、私が愛したいように愛せるあなたでいてくださいという願いです。
ここで聖書は二つのことを教えてくれます。まず、どんなに親しい人から拒絶されるとしても、自分自身を否定してまで相手に合わせる必要はないし、そのような関係は相手にとっても実は失礼であるということ。次に、自分にとって理解できないという理由で相手を拒否してはいけないということ。別の言い方をすれば、変わらない部分を大切にしながら、変わり続ける勇気を持ち続けるということになるでしょう。
そういう意味でイエスは本当の優しさと厳しさを兼ね備えた方だと言えるでしょう。