神々の山嶺

 映画を見損ねて、DVDのレンタルはまだということで、原作を読みました。夢枕獏というと陰陽師のイメージでしたが、山岳小説が面白い。あとがきによると、ヒマラヤも何度も登っているという山の猛者のようです。作品を読んでいると、本当に息苦しくなってくるくらいリアルな描写で、筆力あるなぁと思いました。
 内容はミステリー要素も強く、次々とページをめくりたくなります。エヴェレストで頂上付近で行方不明になったイギリスの登山家は頂上を踏んだのか?その謎を解くためにネパールと日本を舞台に話が展開していきます。中年にさしかかった主人公が仕事や人生について疑問を感じながら、しかし生きていくほかない。新しい夢を見るには先が見えすぎている。しかし諦めるには早い気もする。その主人公が山に取り憑かれた男の人生を追っていくうちに変わっていく。難のために山に登るのか。それは何のために生きるのかと問うことと同じだと、標高7000m近いこの世の果てで問い続ける場面は本当に息苦しくなってきます。

心の病とキリスト者の関わり

 本書は精神科医として臨床経験を重ねてこられた著者がクリスチャンとして、また神学生や牧師との関わりを通して、精神医学と信仰、教会のあり方が相補的な関係にあることを多くの実例に基づいて語っている本である。多くの引用がされており、それぞれの本を読んでみたいと思わせる、魅力的な読書案内にもなっている。
 第二章 臨床精神医学の基本的知識 第三章 牧会上有用な心理学的概念 のあたりは、専門的な内容を実例を交えながらわかりやすく解説していて、こうした種類の読み物として今までに読んだどんな本よりも分かりやすく思われた。著者の理解がそれだけ深いということだろう。第四章 キリスト者の関わり 第五章 具体的な牧会活動 はいよいよ具体的な事例を検証しながら、心の病を抱える人に対する援助者のあり方について具体的な示唆を行っている。現在の教会のあり方、医療のあり方に対する率直な批判も随所に現れ、厳しい内容になっているとともに、信仰の力、人間の可能性への感動が語られる。 第一章 援助者の基本姿勢―本書の前提となる事柄について― 第六章 いくつかの雑感 の二つは、間の章で具体的に検証されている事柄を、第一章は要約として、第六章はエッセイ風に書かれている部分である。

 いくつか心に残った部分について書いておきたい。著者は何度か専門化・分化の陰の部分について指摘している。教会の中に心を病んだ人に対する理解が低いことの問題についても言及しているが、逆に心の病について知るがゆえに、非専門家である自分にはうかつに関わることはできないと、医師や専門機関に丸投げしてしまうことの問題を指摘している。これは、学校などでも同じで最近はカウンセリングやさまざまな医療的診断についての理解が進んだ結果、何らかの診断がついたら、カウンセラーや病院に丸投げ、あるいは関わりについてはカウンセラーや医師の言いなりということも起こっている。筆者も何度も書いているが、心の病は社会の病である。どういう心の病が起こるかは社会のあり方に左右される。言い換えれば、心の病を生む社会の構成員である自分を無関係な場所に置くことはできないということであろう。ある家族の代々抱えている問題を一人の子どもが担っているという場合がある。また「影」の問題としてよく語られることだが、非常に成功した親の子どもが心の病に罹っているという場合がある。そのことによって何かのバランスを取るように。心を病む人の存在は、その社会の欠けをいわゆる「健康な人」に認識させる。たとえば学校に行けない生徒がいたとして、その生徒に問題があるのだという認識だけでは問題は解決しないだろう。むしろ学校に普通に行けることの方が何か不自然であるかもしれないのだ。筆者はそうした人を「いけにえの子羊」と表現している。子羊は社会に警鐘を鳴らし、社会を危機から救うのだと。預言者、詩人、神経症・精神病の患者、犯罪者であったりする人々が集団の影を背負わされていると考えるのである。

 「『共に生きる』とよく言われます。私たちは一人ではなくて、多くの人と共に生きている社会的存在なのですから、正しい主張といわねばなりません。しかし、そこには共に生きるという積極的人生態度をとれないものを裁く、あまりにも健康な人生観があるのではないでしょうか。そのためか主張する人の意に反して、それは共にを否定する結果を招く主張になり易いように思われます。」(藤木正三『神の風景』ヨルダン社

 「C子さんは、速く話をしたり、字を読んだりすることができない。行動も少しスローである。しかし、礼拝や分級で聖書の朗読や輪読をしている。参加しているのである。教会がいろいろな人に参加の機会と場を提供することが大切だと思っている。C子さんは教会を休まない。教会を見捨てないのである。見限らないのである。本当にうれしい。C子さんに見限られたら、教会は教会でない。」(本書より)

 学校から去っていく生徒に対して、あるいは会社などから去っていく人に対して「落伍者」「ドロップアウト」という認識があるのではないか。「ついていけなくなった」ということである。学校や会社がその生徒に、その人に見限られた、見捨てられたとは考えないのではないか。変わらなければと思わないということである。
 治療者・援助者の変容については、「転移・逆転移」の項に理論がわかりやすくまとめられている。転移は患者から治療者へ逆転移は治療者から患者へ向けられる無意識的な感情のことである。本書には「転移・逆転移は人間の心の深層における心の交流の一つであり、人格変容の有力な手段と考えられる」「ある種の対人関係の困難や精神症状は転移・逆転移という心の交流を介して初めて克服され得る」とある。つまり、治療にあたる側の人間も変容を免れないということである。自分だけは変わらない位置にいて、相手が変わっていくことを望むことはできないということである。深層心理レベルの交流においては、医師と患者とか先生と生徒とか牧師と信徒という枠が取り払われる、個人的な感情の交流が起き、それが心の回復に向かうきっかけとなる。しかし本書でも指摘されているとおり、そこには危険が伴う。本書に「私たち臨床家がこの転移感情の動きに気づかなかったために、致命的な痛手を受けたり、悲劇的な結末を招いたりすることがあったように、牧会者もまた、ある時期、必要以上に個人的な感情を向けられたり、逆に、ある信徒に妙に心引かれるものを感じたりする経験は皆もち合わせているのではないだろうか。また、こうした特別な感情や性的誘惑によって牧会者が足元をすくわれたという話は皆無とは言えないであろう」とある。
 本書ではこれは関係性の産物であって、心理学的冷静さをもって自制と謙虚さを忘れないように注意せよと警告している。いつの間にかよき父親(母親)役、よき恋人や救い主を演じさせられていないか、そのことによって、相手の中に悲劇のヒロインを見ていないか注意しなければならない。だいたい深刻な相談事というのは一対一でしかも人目につかないところで行われるものである。援助者は常に冷静さが求められるだろう。しかしここが難しいところだが、クールになりすぎてマニュアル的に対応しても相手は心を開かず、深層心理レベルでの交流は起きないため、治癒も覚束ないということになるだろうから、危険を知りつつ飛び込む覚悟が必要になるだろう。
 もう一つやはりそうだなと思ったことは、病んだ経験のある人の強みということである。心の病にある人の話をよく聞けるのは、やはり体験した人である。健康すぎる人は病の側面が分からないからである。もちろん、病んだ経験のある人が病む人に近づく危険もある。本書で「私自身が人の悩みや苦しみに敏感になり、ことばに対する感性が鋭くなるのは、決まって自分が何かで悩んでいたり苦しんだりしているときだったからである。」「援助者自身の心の苦しみは、しばしばその人を被援助者と同じ地平に導くのであろう」とあり、大いに納得した。
 本書を読んで改めて感じるのは、多様性が確保されていることの健全さである。一つの目標に向かって高い得点をマークするには同質の集団の方がいいだろう。そしてそういう瞬間も必要かもしれない。しかしそればかりでは危険である。同質の集団には必ず同質の弱点があるからである。その弱点ゆえに全滅してしまう前に、異質な存在が立ちあがってくるのだと思う。それは未来を予言する警告者である。心の病は年々増加しているようだ。本書は2000年に出版されているが、現在本書の指摘はますます有効である、残念ながら。社会全体の変容が求められているのだろうが、過去の成功体験に縛られて変化できない。これはうつ病の心性である。現代は日本社会がうつ病に罹っているのかもしれぬ。

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール

少年の名はジルベール

 『風と木の詩』という少年同士の肉体的な絡み合いを含む友情を描いた作品を少女漫画で実現した竹宮惠子さんの自伝です。竹宮惠子さんというと私が思い浮かべるのは『地球へ…』です。80年代に劇場版アニメにもなり、2000年代に再度アニメ化されたので、竹宮作品で最も有名でしょう。
 竹宮惠子が同年代のマンガ家萩尾望都と同居した「大泉サロン」と呼ばれるボロアパートでの生活や、マンガを描く喜びや苦しみが語られています。友人の増山法恵さんの少女マンガ界に革命を起こすという熱意に押されて竹宮惠子は挑戦的な作品を描いていくがなかなか納得のできるものが描けない。『風と木の詩』の構想を編集部に持っていっても、こんなもの少女漫画に載せられるかと拒絶されてしまう。しかし何度も挫折しながらマンガを書き続けて、本当に世の中を変えてしまった。
 竹宮惠子京都精華大学でマンガを教え、学長にもなり、2014年には紫綬褒章も受章しています。ひたすら一筋に打ち込んできたものがある人の強さが感じられます。多くの人が彼女の周りに集まってきて、さまざまな助力をしています。しかし竹宮惠子は自分のしたくないこと、できないことはしない。頑固に自分を貫いていきます。そこがすごいなあと思います。文章も魅力的で一気に読みました。

ぼくらの頭脳の鍛え方

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

 立花隆佐藤優が対談をしながら、教養を深めるのに必須な本を紹介していきます。二人の会話が面白くてするすると読めてしまいますが、読めば読むほど自分の不勉強を恥じることになります。しかし二人の猛勉強振りを知るにつけ、自分には恥じる資格すらないと思えてきます。しかたがない、人は蒔いていないものを刈り取ることはできません。多く刈り入れている人は、それだけの準備をしたのである。

この国の冷たさの正体

この国の冷たさの正体 (朝日新書)

この国の冷たさの正体 (朝日新書)

 ある意味メディア・リテラシー的な本である。マスメディアが流す情報がいかにデータに基づかない怪しげで、得をしたい一部の人のための結論ありきの情報であるかを明らかにしています。筆者に言われるまでもなく、特に最近のテレビの情報はあまりに怪しく意図的であると思う。インパクトのある情報の一部だけ流し、それを追いかける報道もされないので、善悪・好悪のイメージだけが植え付けられてしまう。現場の心ある記者はたくさんいるはずだが、テレビに映っているタレントの無責任で、感情的なコメントなどは毒にしかならない。そういったテレビの情報を鵜呑みにしている人はいないと信じたいが、もしそのような情報にだけさらされている人がいるなら、本書はその処方箋としてお勧めする。
 全体的に切り口は賛成なのだが、浅い紹介で終わっているので物足りない気がします。第三章「何があっても自分を責めるな」第四章「自分の人生まで冷たくしないために」はまあまあ面白い。

国家・宗教・日本人

 司馬遼太郎井上ひさしの対談集。新装文庫版で文字も大きく行間も広く、昔の岩波文庫単位で半分か三分の一の分量くらいしかないのですぐに読めます。95年96年が対談の初出のようですが、内容は古びていない。司馬遼太郎の最晩年の語りということです。ちょうどオウム真理教の事件が扱われていた頃のようで、オウムのことが頻繁に出てきます。
 この本を読んだきっかけは、司馬遼太郎没後20年を記念してNHKで放送していた『この国のかたち』に触発されてです。
 宗教のことについて語っている部分で、井上ひさしが「宗教には、自分の心よりも他人の心を大切にしようという姿勢が基本にある」と言っているのはさすがだなと思います。だからオウムは宗教ではないと言っています。なぜなら、相手の心を大切にするのは相手の立場に立たねばならず、そのためには自他の壁を壊して他人の気持ちにならなくてはならぬ。しかしオウムは他者との間に壁を厚く築いて自分たちの現世での救いばかり説いている。鋭い見方です。ちょうど麻原が逮捕されてしばらくの頃にされた対談のようですが、やはり作家の目は違うなと思います。
 また司馬遼太郎が現代の日本人は宗教に無知であるというのは同感です。宗教に無知であるがゆえに、宗教らしきものが入ってくるとすぐに動揺してしまう。本当は宗教について学校などできちんと学んでおく必要があります。仏教・キリスト教イスラム教くらいは学校教育の必修科目にすべきだと思います。
 これは司馬遼太郎の持論としていつも語られていることですが、統帥権の問題があります。大日本帝国憲法では天皇は独裁者ではなく、国家の機関であった。美濃部達吉天皇機関説が正統的理解であった。それが統帥権というどこにも書かれていない権利が陸軍を中心に声高に叫ばれていって、日本は戦争に突き進んでいったという。司馬遼太郎は明治の人々を高く買っている。その勤勉と国家への熱い思いを誇り高く書いている。司馬遼太郎は本当の意味での愛国者だろう。それだけに日本が歪んだ戦争に突き進んでいったことに怒りを抱いている。NHKの『この国のかたち』でも取り上げられていたが、古市公威という土木工学の最初の日本人教授になった人物について語られています。古市がフランスに留学していたとき、あまりに激しく勉強していたので下宿のおばさんが、からだを壊すと注意したところ、「ぼくが一日休むと日本は一日遅れます」と答えたというエピソードです。今の日本で、こういう意識で留学する人はいないでしょう。どちらがよいかという問題ではなく、明治時代というのはそういう若く熱い時代だったのででしょう。井上ひさしが、中国からの留学生を三人受け入れたことがあるという話をしています。三人とも女性で、それぞれ別の時期に受け入れたそうですが、どの女性も井上ひさしがあげた辞書をぼろぼろになるまでひきつぶして、大学に進学していったというのです。この時の中国はまだ今のような大国ではありません。この対談から20年くらい経過していますが、日本は中国に追い抜かれています。その頃の中国は明治の日本のような若く、熱い雰囲気に沸き立っていたのでしょう。きっとインドネシアとかマレーシア、ベトナムミャンマーなどもこれからそういう「ぼくが一日休むと国が一日遅れます」という感覚で勉強する若者が現れてくるのでしょう。いや、もうたくさんそういう人がいるでしょう。
 司馬遼太郎井上ひさしも、日本が再び明治の頃のような発展をしたらいいと考えているわけではなく、「美しい停滞」「成熟した社会」を目指すべきだと提言しています。今の日本は戦後復興期の頃のような幻想を抱いているように見えます。東京オリンピックは1964年のそれとは確実に異なるはずのものですが、どうも今政治を行っている人たちには、新幹線とリニアを重ね、オリンピックにも日本の復興を重ねているように思います。そういう時代ではなく、むしろ人々の幸福度の充実や、文化度の成熟、宗教をはじめとする心の成熟に焦点を当てるべきだと思うのです。
 日本語の話も面白い。言文一致の日本語、口語体としての、演説としての日本語の成立についての論考も面白いです。「聞き手を自分の話に夢中にさせようというときは、どうしても言葉そのもののほかに節のような、力のあるもので人の心をつかまえようとする」というのは、今一番私が関心のあることです。

図書館戦争

図書館戦争

図書館戦争

高校生に勧められて読みました。そういう機会でないと出会うことはなかったでしょう。恋愛がメインのお話ではあるのですが、検閲の話や、「不適切な表現」の話などは現代的な問題を鋭く指摘しています。メディア良化法という、検閲が合法化した世界を描いているのですが、その法律が成立したきっかけが、行き過ぎた表現の自由にあるとなると、全くのファンタジーとも言い切れません。日本のマンガが世界基準では児童ポルノに当たるという指摘は前々から言われていますし、週刊誌の下品さには確かに目に余るものがあり、メディア良化法のような法律が通る土壌はあると感じます。それだけにリアリティがあって、小説の面白さを支えています。しかしながら設定を詳しく説明しようと努力しすぎてかなり長々とした説明を登場人物に語らせるため、バランスが悪いところもあります。たぶん作者の本領はテンポのよい会話部分にあって、恋愛パートのかけ合いは、お互いが相手に恋をしているという自覚がないだけに、面白いです。社会人設定ですが、思春期真っ只中という感じで、高校生には身もだえする面白さだろうと思いました。